[3] 長老とその一族

長老は、その年で約65歳。一族のものたちからは「敬うべきもの」を意味する「タオ」という敬称で呼ばれていた。生まれはこのカスティ−ジョの岩陰で、母は今日のモリンという洞窟からやってきたと聞いていた。モリンはカスティ−ジョから約20キロ北の海に近い丘陵地帯に開口する洞窟で、その広々とした岩陰は、近くのエル・ペンドと並び、遥か昔から赤毛の一族の住まいとして使われていた。カスティ−ジョ、エル・ペンド、モリンの一族は、狩猟やモノや女たちの交換を通じ、代々、堅い絆で結ばれていたのだった。
長老には母を同じくする兄弟姉妹が覚えているものだけで12人いたが、その半分は10歳に満たないうちに病や怪我で死に、一番槍を任された40代の頃に残されていたのは、2歳年下の弟一人とエル・ペンドにもらわれていった3歳下の妹2人だけであった。後年、同じ世代の年長の者から聞かされてところによれば、冷夏で夏枯れと不猟の続いた年の冬には生まれたばかりの乳飲み子が次々と間引かれたこともあったという。

幼少の頃の長老は、もっぱら母に付き従い、春から夏の間は蜂蜜や薬草の採集、秋には果実や木の根の採集を手伝った。時には野兎や野ネズミ、栗鼠などカスティ−ジョに住まう小動物を手で捕獲することもあった。野ネズミなどは、巣穴さえ見つければ子供でも簡単に穴からで来る獲物を捕まえることができたのである。ただし、洞窟の外は常に危険と隣り合わせでもあった。長老が弟を失ったのもある年の晩秋、いつものように母に連れられてキノコ狩りに山に出た時であった。カスティ−ジョ山頂に近いヤギの洞窟の近くでトリフを探していたところ、冬ごもり前のホラアナグマに突然襲われ、逃げ遅れた弟は一撃のもとに地面に叩きつかれて息絶えた。妹が山で死んだのもその年の冬であった。野兎を追っていた兄弟たちはシラカンバの林に中で獲物を捕獲した瞬間、ドールの群れに襲われ、逃げ遅れた妹はあえなく5頭もの獣の牙に引き裂かれて死んだ。洞窟に住む一族にとって死は、日常、極くあたりまえのできごとであった。それは一時悲しいできごとではあったが、自然の流れのひとこまとしてただ黙って受け入れざるを得ないことでもあった。

18歳になる頃には、他の兄弟と同様、年上の男たちに混じって大モノの狩りに出るようになる。また、狩りに必要な道具も年上の男たちに習って自分で作るようになる。道具は主として石器で、最初は下の川原で拳ほどの堅い石を見つけ、見よう見まねで石で叩き割って石斧や石刃、槍先などをこしらえた。それが上達するとやがてはよりきめの細かいフリントの塊を熟練者から渡され、更に良質の石器が作れるようになった。石器の作り方は必ずしも一様ではなかった。最も古くから伝えられている方法は、丸めの石をもう一つの堅い石で斜め上から叩き、はがれ落ちた石のかけらをかるく整形して石刃や石斧や槍先に加工するというものだった。一方、これは比較的新しい技と伝えられていた方法であったが、丸いフリントの上下を平行に打ちかき、その天面の端をシカの角先などで叩いて比較的形の揃った石刃をたたきだし、その石刃に更に手を加えてより精巧な掻器や石刃、槍先に仕立てるという方法も彼の得意とする技だった。石器作り、狩猟ともに長老の腕は着実にあがり、40歳になる頃には、狩猟の現場を仕切る一番槍を担う立場となっていた。

しかし、長老が長老として「敬うべきタオ」の立場を先代から引き継いだのは、実は、狩猟や石器作りの技術によってではなく、その卓越した記憶力によってであった。赤毛の一族たちの間には一族の出自と掟が遥か昔から口伝の形で伝えられてきたが、その一族の口伝を一言違わず記憶し、継承可能な者だけが一族のタオとして尊敬を得ることができた。長老は20代の半ばからその才能を見いだされ、先代からの直伝で一族の出自と掟を受け継いでいたのだった。

口伝に曰く。「我らは、その昔、あの白い山並みのはるか彼方の谷間より来たれり」
すなわち、長老が先代から引き継いだ口伝によれば、この赤毛の一族は、遠い昔、あの白い山並み、つまり今日でいうピレネー山脈のはるか彼方のとある谷間を拠点に暮らしていたという。住まいは南北を東に面して走る小高い崖の中腹に開かれた横長の岩棚で、眼下にはどの場所からも豊かな雑木林と草地と川の流れをのぞむことができた。春ともなれば木々は一斉に芽をふき、やがて濃い緑の葉を茂らせ、色とりどりの草花が野に咲き乱れ、蝶や蜂や黄金虫たちがその蜜に群がり、冬の眠りからさめた動物たちもつぎつぎに巣穴から顔をのぞかせ始めた。暑い夏がすぎ、秋になれば林の木々は実をつけ、ヒトも動物たちもその採集におわれた。冬は、時には大雪に見舞われることもあったが、堪え難い寒さにふるえるようなことはめったになかった。岩棚の住まいからは四季を通じ、動物たち、すなわちバイソンやオーロックス、シカ、ウマ、ヤギなど狩りの獲物の谷間を行き交う様を手に取るように眺めることができた。あの白い山並みの遥か彼方の谷間は一族にとっては悠久の楽園であった。

そして、口伝に曰く。「やがて寒さいとも厳しくなりし頃のあるとき、北の方より姿かたち怪しき族が群れをなして来たれり。」
つまり、何時しか冷夏の年が増え、冬の寒さが増し、同時に川向うの森の北側に異様な姿かたちをした怪しいヒトの群れがやってきた。そのものたちは、やや細身で背筋がのび、足は長く、毛髪は黒。肌は小麦色で、時にはその顔や腕が赤や白で塗られていることもあった。それは明らかに一族とは違う族であった。その足長の族たちは、やがて森に連なる山をひとつ越えた平地に群れをなして住むようになった。住処は木と草と獣の皮でできた小さな竪穴の庵でそこに子供も含めて5、6人が寝食をともにしていた。彼らは槍を驚くほど遠くに飛ばすことができ、獲物をたやすくしとめることができた。川で魚をしとめることも得意なようであった。群れの数は年ごとに増え、山のこちら側の森の中でも彼らの姿を見かけるようになった。時には、狩りの際に山中で遭遇し、互いに手話で様子を伺い、飾り物や石の道具を交換することも稀ではなかった。そして、時には足長の彼らがこちらの岩棚を訪ね、赤毛のものたちが山の向うの庵を訪ねることもあった。足長の族の住む庵ではいろいろ珍しい品を見ることができたが、中でも奇妙なのがヒトの形をした土の塊だった。足長の族たちは、そのヒト形の土の塊を片時も話さずに胸に抱いているようであった。また、時には、互いに若い女を連れて帰ることもあった。かくしてわが赤毛の一族と足長の族たちの間にはなにひとつ諍いの種は生じなかった。ところが、であった。

更に口伝に曰く。「されど、寒さが更に厳しさを増すにつれ、かの族たちは平地にあふれ、やがて獣と木の実をめぐる諍いが頻発せり。時にかの族たちは激しく我らを襲い、獣どもをことごとく駆逐し、木の実をことごとく採りつくしたり。」 すなわち、周囲の寒冷化が更に進むとともに、異族たちの北からの移動も激しさを増し、赤毛の一族の猟場も次第に彼らに侵害されるようになった。赤毛の一族ももちろん抵抗はした。が、かの足長の族たちは、闘いのための道具、戦略、群れの大きさのどれをとっても赤毛の一族のかなう相手ではなかった。当初、時には山野で両者あい争ったが、その度に赤毛の一族は大敗を喫し、遠くから放たれる槍で躯を貫かれるものも少なくはなかった。
「かの族ども、侵略する時は火のごとく、」と口伝にあるように、先住の異族らを襲う足長の族たちは、赤毛の一族にとって極めて獰猛で冷酷、野蛮な族どもであった。そして、口伝は「かくして我らあの岩棚をかの族どもに明け渡し」と続き、一族は住み慣れた谷間を去り、新しき猟場を求めてあの白き山並みの西までやってきた。長老が継承した口伝は、その頃に再編された伝承であった。一族はそれから更に谷間にそって西に進み、長い歳月を経て現在のカンタブリアに拠点を定めたのであった。

「我らは、その昔、あの白い山並みのはるか彼方の谷間より来たれり…..。」
「我らは、その昔、あの白い山並みのはるか彼方の谷間より来たれり…..。」


長老は最後に口伝の冒頭の一節を吟じ、皆も復唱して祈りの場を後にした。