[「カンタブリアLGM 」第I部 赤毛の一族 オオツノシカ狩り 脚注]    「カンタブリアLGM 」Topはこちらから

今からおよそ3万6千年前
スペインのUNED(The National Distance Education University=国立遠隔教育大学)が2008年から2010年にかけ、スペイン北部の旧石器洞窟遺跡で行なった考古学的調査によれば、同地区(カンタブリア地方)における中期旧石器時代から後期旧石器時代への移行は、年代的には以下のように漸進的に行われたとされている。
  • ムステリアンの末期:約5万年前〜3万5千年前
    Esquilleu(34.3~39.0kya), El Sidron(40.8~38.2kya)
    Arrillor, Lezetxikiではペンダントと推定可能な貝、El Castilloでは線や点が描かれた石核が発掘されている。
  • 移行期のオーリネシアン:約4万年前〜3万8千年前
    El Castillo(40~38.5kya)
  • シャテルペロニアン:約3万8千年前〜3万年前
    Cueva Morin, Labeko Koba, Ekain, La Guelga(38.6/34~30kya)
  • アルカイック・オーリネシアン:約3万6千年前〜3万年前
    El Castillo, Cueva Morin, Covalejos, Labeko Koba, La Vina(36.5~30kya)
また、J.M.Maillo-FernandezやPaul Mellarsの研究によれば、アフリカを出た解剖学的現代人(AMH)は、東ヨーロッパを経由して4万年前頃までにはピレネーの東まで進出したことになっている。従って、スペイン北部では解剖学的現代人すなわちここではクロマニヨン人は約4万年から3万年前の間にピレネーの東からイベリア半島に進出し、漸進的に先住のネアンデルタール人と入れ替わったことが推察される。本稿では、以上の説をとって物語の始まりを3万6千年前、最終氷期でも最も寒冷化が進み始めた頃とした。
    [文献]
  • J.M.Maillo-Fernandez et al, 2010, The MIDDLE-UPPER PALAEOLITHIC TRANSITION IN THE CANTABRIAN REGION(a Mosaic Model), Research Project HAR2008-0173/HIST(Spanish Ministr of Science and Innovation).
  • Paul Mellars, 2004, Neanderthals and the modern human colonization of Europe. Nature 432:
  • Paul Mellars, 2011, Palaeoanthropology: The earliest modern humans in Europe. Nature 479: 483-485


最終氷期でも最も寒冷化が進み始めた頃
地球上の過去の気候については、南極やグリーンランドなどの氷床を掘削して得られる「氷床コア」を分析することによってかなり詳細に知ることができる。「氷床コア」には、各年ごとの風成塵、火山灰、大気成分、放射性物質など気候に関する指標が樹木の年輪のように蓄積されているからである。
中でも南極のボストーク基地で掘削された「ボストーク(Vostok )」の場合は、その年代は42万年前までさかのぼり、4つの氷期サイクルを明らかにした。他にグリーンランド氷床の頂上部で掘削された「GRIP/GISP」、南極のボストーク基地から約560km離れている標高3,233mで掘削された「EPICA/Dome C」、南極大陸のドームふじ観測拠点で日本隊によって掘削された「ドームふじ」が知られている。

そこで先史時代の気候を気温について調べてみると、「ボストーク(Vostok )」で得られた重水素に関するデータによれば、最終氷期の平均気温の現在値との差は3万5千年頃で摂氏約−5度。その後更に寒冷化が進み、いわゆる最寒冷期(LGM)とされている2万年前頃では摂氏ー8度前後と推定されている。




一方、スペイン北部の現在の気温をサンタンデールについて見てみると一番寒い1月と2月の平均気温が摂氏7〜12度前後。一番暑い7月8月で摂氏17〜22度前後となっている(Axis Test labo., UK)。




以上から、この物語の始まる3万6千年前頃のカンタブリア地方の平均気温は、一番寒い1月と2月が摂氏2〜7度前後。一番暑い7月8月で摂氏17〜22度前後、晩秋の10月から11月ともなれば、摂氏7〜4度前後、内陸部のカスティージョ山付近では年によっては降雪もあったと推定できる(Axis Test labo., UK。上図でMax Temp LGMとMin Temp LGMは筆者が挿入した)。

    [文献]
  • J.R.Petit et al, 1999, Climate and atmospheric history of the past 420,000 years from the Vostok ice core, Antarctica.Nature 399:

    [URL]
  • http://www.ncdc.noaa.gov/paleo/globalwarming/paleobefore.html


カスティージョ山
この洞窟は、カンタブリア州中央部にあるプエンテ・ビエスゴの町を臨むカスティージョ山に開口しており、洞窟の名もその山の名前に由来している。1903年、この洞窟開口部にある玄関口から重要な考古学包含層が見つかり、内部からは彩色画や線刻画の壁画が発見された。発見者のエルミリオ・アルカルデ・デル・リオはこの地区の教師であり、カスティージョ洞窟に関する最初の調査を行った人物である。その後、今日に至るまでに、落盤でその入口が封鎖されてそれまでは分からなかったもっと小さな洞窟が同じ山で次々に発見された。ラ・パシエガ、ラス・チメネーアス、ラス・モネーダスなどの洞窟がそれであり、そこでは考古学包含層と共に壁画も見い出された。他にラ・フレチャ洞窟も発見されたが、そこでは入口に考古学包含層だ けが発見されている。

後期旧石器時代には、高さ約190mで東北東を向いたカスティージョ洞窟外側の大きな岩陰は、当時は開口していた他の洞窟よりも頻繁にヒトによる利用があり、この山やこの周辺における居住の本拠となっていた。この観点からすると、カルスト化が進んだ石灰岩の同じ山にある他の洞窟は、カスティージョ洞窟を中心とした住居と洞窟美術の傍系的延長と考えられ、これらの洞窟は、どちらかといえば一時的な野営や集会、その他の活動に使われ、その活動のいくつかには壁画の制作が伴っていたと考えられる。

最初の調査の後、1910年から1914年までH.オーベルマイヤーとH.ブルイユが率いるパリの「人文古生物学院」による発掘がカスティージョ洞窟開口部前の岩陰で行われた。同時に壁画の調査もアルカルデ・デル・リオと何人かの外国人研究者の協力で行われた。発掘された考古学包含層が厚くて保存状態も良かったため、これらの調査はカンタブリア地方における旧石器時代の文化の流れを決定するための決め手となった。一方、内部の壁画に関する調査も、そこには様々な技法や様式を使った重ね描きが多く見られる複雑なパネルがふんだんにあったため、アンリ・ブルイユが壁画の編年を確立する際に重要な役目を果たしたのである。後期旧石器時代にわたって技法や様式が徐々に変遷してきたことに依拠したこの枠組みは、1965年にルロア・グーランの主要な業績が発表されるまでは年代調査の基本となっていた。とはいえ現在も、カスティージョ洞窟の壁画については、複合的なパネルは同時期のもので、多くの重ね描きは構成のひとつの形式に過ぎないと考える構造主義の研究者がいるものの、多くの複合的な壁画集合体は、何千年にわたる装飾の歴史において別々の時期に描かれたものであるという最良の証拠を提示していることに変わりはないだろう。

カスティージョ洞窟の考古学包含層は、1980年代になり、今世紀はじめ分析もほとんどされずに暫定的に発表されていた調査報告書を検討していたV.カブレーラによって発掘が再開された結果としては、岩陰の包含層は20mの厚さにも達し、約15万年前のアシュール期から後期旧石器時代末期まで、そして旧石器時代以降さらに先史時代末期までも含む考古学的に区分できる30近くの層序が確認された。この広範な層序が現在の発掘・調査を通し、ムスチエ文化のネアンデルタール人、オーリニャック文化のホモ・サピエンス、ならびに後期旧石器時代の人々までの変遷あるいは交替などの問題に対し、非常に重要な情報を提供することになったのである。

長期の層序に証拠として見られるように、この洞窟が頻繁に住居として利用されたのは、この岩陰の居住性の高さやカスティージョ山特有の戦略的な立地などのためである。カスティージョ山は、カンタブリア地方の中央部にあり、開けた海岸地方と内陸の山峡地との接点に当たるという地形的にも中心的な位置を占めている。またベサヤ川とパス川がその途中を横切る東西に連なるドブラ山脈の東端にあり、トランソ渓谷や、非常に近くのパスエーニャ渓谷へ続くパス川の通路、すなわち、野生の有蹄類の群にとっては欠かせない高地の夏の牧草地への通路を見下ろすかたちとなっている。またその横にはドブラ山脈の北を巡るベサヤ川流域への通路もあり、この山からも見張ることができたのである。

カスティージョ山が見事な円錐形をしていることや、海岸地帯の平野と内陸の山岳部をつなぐ要となる位置にあることから、広々として向きも良いこの洞窟の岩陰が、旧石器時代を通じ、カンタブリア地方中央部の海岸と内陸部を狩猟者たちが移動する際に野営地として使われたことが推測される。その証拠として後期旧石器時代、マドレーヌ文化期までの考古学包含層には海産の貝殻がよく見つかっている。

一方この山からは、利用可能なさまざまな資源の分布域や生息域へすぐに行くことができる。近くには、カ スティージョ山自体の礫岩を含め、パス川の河原石のなかに道具を製作するための石材がふんだんにあった。また、谷底近くの平地や切り立った山腹など、その方角によって部分的に植生や資源が異なるためにさまざまな動物が生息し、それらを対象とした狩猟や漁がふ んだんに行われたことが考古学包含層から確認されている。

洞窟の内部は実に複雑に回廊が形成されている。壁画は洞窟全体に分散しており、密度にはばらつきがある。これに加え、技法や様式、形式などが多様であることから、またさまざまなパネルで重ね描きが見られることから、開口部岩陰における居住と同様に、洞窟内部にも幾度となくヒトが訪れ、いろいろな点で手を加え、改修していったものと推測される。また、壁画については、後期旧石器時代全体に対応するものが見つかっている。カスティージョ洞窟は、もともとこういった状態であり、また1950年代になると適切な考古学的配慮無しに観光用の工事が何度も内部で行われたこともあり、それぞれの区域への通行がどの程度困難であったとか、また本来の壁画がどのような見え方をしていたかなど、旧石器時代の壁画を空間的に分析することは、現在では非常に難しくなっている。従って率直にいえば、絵の空間的構成やその莫大な量ということもあり、この洞窟の壁画を簡潔に理解するのは不可能である。[セサル・ゴンサレス・サインス、PhotoVRマルチメディアデータベース「先史人類の洞窟美術」解説より]

    [文献]
  • J.R.Petit et al, 1999, Climate and atmospheric history of the past 420,000 years from the Vostok ice core, Antarctica.Nature 399:

    [URL]
  • http://www.ncdc.noaa.gov/paleo/globalwarming/paleobefore.html

Takeo Fukazawa