ALTAMIRA

カンタブリア地方の洞窟のうち、世界的に最も名を知られたこのアルタミラ洞窟は、サ ンティジャーナ・デル・マルの町から南西約2.5キロのところに開口している。周りの 風景を見下ろす位置にある、標高161メートルほどの、石灰岩の丸い岩山の頂上付近に ある。「アルタミラ」(高い望楼)という洞窟の名が示すように、ここからカンタブリ ア地方の西及び北の方向に広がるカルスト地形の方角に視界が開けており、現在は洞窟 から約5キロに海岸線が位置している。また南約2キロ足らずにあるサハ川の方向にも視 界が開けている。

驚異的に美しい壁画があるアルタミラ洞窟という考古学サイトは、幻ではない。今日、 洞窟の半径10キロの範囲に、アルタミラ程目は引かないにしろ、2つの旧石器時代の壁 画集合体が見つかっている。西の方には、ラス・アグアス洞窟とリナール洞窟、南のサ ハ川岸にはラ・クロティルデ洞窟、東にはサハ川を越え、ベサヤ川と合流した地点にあ るクドン洞窟、またベサヤ川の下流にあるソビージャ洞窟などである。この地域には、 後期旧石器時代の住居跡などの包含層だけのものはもっと多くあり、ラ・ペーニャ・カ ランセハや、クアルベンティ、グルグー、ラ・ピーラなどの洞窟がその代表である。

アルタミラ発見から120年たった今でも、北スペインで既に100もの洞窟が見つかってい る中で、アルタミラの多彩色のバイソンは、その美しさで群を抜いており、これは西洋 の先史時代全体を通して、疑いもなく最も驚嘆すべき壁画のひとつである。しかしなが ら、その他の、洞窟内の考古学記録に関しては、かなり一般的で、この地方にある他の 壁画洞窟や考古学サイトと似たようなものである。アルタミラ内部の壁と天井には、あ の有名な多彩色の動物の他に、線刻画や黒の彩色画、また赤や黄色、スミレ色の動物や ヒトの絵、抽象具象、その他、形を形成しないモチーフなども描かれている。同じく、 洞窟の入口の外光が届く辺りで、ソリュートレ文化とマドレーヌ文化前期の住居跡が調 査されている。ここからは、およそ18,500〜14,000年前に繰り返し住居とされた痕跡が でている。この期間に、洞窟内部の壁画のほとんど、またはすべてが描かれた。このよ うな言い方をするのは、これから見ていくように、壁画の年代を巡り研究者によって意 見が分かれているからである。

この洞窟は、1868年からサンティジャーナやビスピエレスの住民には知られていたよう であるが、ほとんど使われていなかった。精力的に研究者を行う、自然学者で、且つ考 古学者のマルセリーノ・サンス・デ・サウトゥオーラは、1875年から1879年までこの洞 窟を調査し、洞窟の入口にある旧石器時代の包含層を発見し正しい解釈を行った。ここ から、石や骨、角でできた多くの道具類や、炭、そこで消費された動物の骨や貝殻な ど、フランスの洞窟で見つかったものとよく似たものが出土したのである。同時に洞窟 内部の壁に、黒い絵を発見しているが、当初はあまり重要視していなかった。1879年の ある日、調査についてきた娘のマリアが、洞窟のホール奥の天井に、地面から非常に低 い位置にあった、赤と黒で描かれた大きなバイソンを見つけたのである。この発見を機 にさまざまなことが起きてくることとなった。サウトゥオーラは、早急に記録を始め、 自ら行った正しい分析結果を発表することを決めたのである。1880年、記念すべき小さ な本によって、壁画と包含層のある旧石器時代というものを世に提唱したのである。当 然ながらこれは、原始社会や進化に関する当時の概念と真っ向からぶつかり、苦い論争 を呼び起こすこととなった。20世紀に入って、ドルドーニュ地方やフランス領ピレネー 地方で証拠が集められたことで、アルタミラの壁画が旧石器時代のものだとようやく受 け入れられただけでなく、この論争の最も重要なテーマであった、技術的にも経済的に も「原始人」である人々(これは先史時代の人のみならず、現在の先住民に関しても)が、 十分に美的能力と知的能力を持ち得ることが認められたのである。

今世紀当初、E.カルテラックと、当時まだ駆け出しであったH.ブルイユの二人がサン ティジャーナを訪れ、アルタミラ洞窟の集合体全体を初めて調査した。壁画の記録と分 析は、これらの壁画が旧石器時代のものであることを証明すること、そして現在の先住 民の芸術との比較を行うことに焦点が向けられていた。その結果は1906年出版された が、その中には当時、H.ブルイユに協力を始めていた、現地の重要な研究者の一人、ア ルカルデ・デル・リオが行った発掘調査の結果も盛り込まれている。

とはいえ、アルタミラ洞窟に関する基礎研究は、30年経った1935年の、H.ブルイユとH. オーベルマイエルが行ったものである。その中には、1906年の調査と比べると、かなり 新しい試みが導入されている。例えば、絵の写しや照明方法における新たな試みなど で、多彩色画の部屋の地面がかなり掘り下げられ、スケッチや採寸がかなり楽にできる ようになっている。このような便宜に加え、以前より適当な資金が調達出来たことで、 より詳細な記録が可能となり、いくつかのパネルの重ね描きされた絵の順序や、具体的 な絵の写し描きなど、1906年の調査における間違いも訂正することができた。またアル カルデ・デル・リオがかつて行った発掘調査に加えて、1924年と1925年にオーベルマイ エルが行ったホールの新たな発掘調査の結果も載せている。

アルタミラ洞窟の壁画の年代や特徴、描かれた順序に関しての推論は、A.ルロア・グー ランが大著書を発表したのを機に、大きく修正されることとなった。実際、ルロア・ グーランは、アルタミラの記録をきちんと見ていなかったにもかかわらず、またこの洞 窟に関しての彼の研究には、大きな手抜きや重大な点の見過ごしがあったにもかかわら ず、多彩色の動物の描かれた年代は、これまでの推論より数千年前であるとの変更を提 唱したのである。このように、ルロア・グーランによれば、後期旧石器時代の技法と表 現の最高峰である、大天井に描かれたバイソンは、ブルイユが推論するような後期旧石 器時代の末期のものである必要性はないのであった。こうして、壁画とモービルアート との類推から、これらの壁画が描かれたのは、もっと早い、マドレーヌ文化前期から中 期(様式IIIからIV)と推論されたのである。現代の放射性炭素年代特定の技術により、 この変更は基本的に正しいと認められた。

今世紀当初30年余りのうちに行われた現地調査のまとめが、ルロア・グーランの時代か ら膨大な数発表され、その都度に印象や、新たな解釈、更新がなされてきているが、当 論文自体もそれらの文献の一つであるといえる。しかしながら、当初に行われた研究と 比肩できる程の意義を持つものは他にない。その中で目を引くものは、L.G.フリーマン と何人かの研究者が行った、洞窟の終点にある狭い回廊「馬の尾」の研究や、ホールで の新たな発掘調査、壁画や出土品の放射性炭素による新たな年代特定などで、広報活動 に関しては、P.サウラが最近出版した著書には素晴らしい写真が掲載されている。これ ほどの出版物があるにもかかわらず、アルタミラ洞窟は、現在でもよく知られていない のである。H.ブルイユが行った現地調査は、当時としては素晴らしいものであったが、 現在では不十分なものになっている。事実、記録に関して言えば、洞窟内には、発表さ れているものよりずっと多くの絵が描かれており、また、文献に述べられている動物で も、かなりの数が絵として記録されておらず、大天井の記録も、はっきりと見える目 立った絵だけが記録されているだけで、写し描きも部分的で、それぞれの絵の特徴部分 だけしかないのである。

アルタミラ洞窟の入口は北北東を向いており、海抜僅か160メートルほどのところにあ る。入口を入ると約270メートルの洞窟となるが、地形的にそれほど複雑なものではな い。この洞窟が1メートルほどに厚さが一定した石灰岩盤が薄い粘土層と交互になって 出来ているものだということは注目すべきである。縦方向の岩の裂け目や岩塊の崩落な どは、この洞窟ではしばしば見られる現象である。恒常的に洞窟の構造が不安定である 為に、洞窟がかなり曲りくねり、起伏が多くなり、部屋やギャラリーの天井は平らで側 面は垂直となり、断面で見ると四角になっている。時にはぶら下がるようにキャンバス が形成され、その縦の面、あるいはその水平な地面を向いた面を、当時の人々は絵を描 くのに利用したのである。一方、洞窟が直角であるということは、絵の保存の為、かな りの工事を行う必要性を生んだ。また洞窟は、壁画発見後は行われていないものの、そ れまでに行われていた近くの石切場での発破や、多彩色の部屋の地面を掘り下げる工事 によってもかなり影響を受けていたのである。その為1920年代、洞窟全体のさまざまな 地点に、天井を支える丈夫な支柱や壁を作る必要性が出てきたのである。最も大きいも のはホールと彩色画の部屋の間にあるもので、元々は繋がっていた空間を、人工的に分 離した恰好となっている。この様な構造物を作ったこと自体の悪影響の他にも、この部 屋のエリアを制限してしまったことや、恐らく天井や崩落した岩塊にあったかもしれな い壁画を隠してしまっている可能性、また、部屋の換気条件も変わってしまったことな ども重要な点である。

かつての入口のすぐ近くに、この洞窟の歴史のさまざまな段階に起きた崩落が確認され ている。重要な崩落は地層的に見て旧石器時代、人の住居に使われていた時代に起きて いる。崩落はソリュートレ文化地層の下にあるものと、ソリュートレ文化後からマド レーヌ文化の地層を部分的に覆っているものがある。この最後の崩落は、マドレーヌ文 化の中期又は発展期に起き、それによりホールを広い、換気のよい住居の場とするには 困難となったであろう。時と共に入口の崩落した岩は固まっていき、アルタミラ洞窟は 忘れられた存在になったに違いない。

その為、アルタミラ洞窟の広いホールにはかなりの量の、後期旧石器時代発展期の人の 住居跡が残っている。何度も行われた発掘で、今から約19,000−16,500年前のソリュー トレ文化発展期から、約16,000から14,000年前までのマドレーヌ文化初期まで、相次い で人による占拠があったことが分かっている。しかし、この発掘も簡単に行えたわけで はない。地面にはさまざまな時期に崩落した岩塊があり、それをかわしながら発掘を行 う必要があったために、包含層を深く掘り下げることは容易でなかったのである。余分 な岩塊を取り除き、作業を効率的に進めることは、洞窟の構造が不安定な為、新たな崩 落の危険性があることから無理であった。この様な困難がある為、ソリュートレ文化以 前に人の住居の痕跡があるかどうかも未だ本当には分かっていないのである。このこと が、これから見ていくように洞窟の壁や天井に描かれた壁画について、さまざまな年代 解釈がなされる所以ともなっている。

基本的に2つの地層に分けることが出来る。古い方は、ソリュートレ文化のもので、そ の地層からは多くのフリントや珪岩の石器が発見されている。特になだらかな角度の刃 を持ち、基部が凹状になった、刻み目などのある狩猟用の鏃が特徴的である。また、中 央部が平らであったり、片側の角落しがあったり、両端が尖頭になっていたりする、シ カの骨で作られた投げ槍の先を初めとして、骨で作られた道具類も見つかっている。中 でも、骨の片に穴を空け、傍に線刻の印をつけて装飾してある4つのペンダントヘッド が際立っている。この地層から出土した骨からは、18,540±320年前という年代が特定 されており、このソリュートレ文化という年代の特徴と非常によく一致し、納得のいく ものである。

マドレーヌ文化初期と思われる地層からは、より多くの骨のインダストリーが通常通り 見つかっている。見つかったものの中には、四角い断面を持ち、基部の一側のみが角落 しされている投げ槍や、目の空いた針や、へら、馬や原牛の歯で出来たペンダント、そ して大量の石で出来たエンド・スクレイパーや彫刻具、長辺の一つに刃潰しの加工処理 がしてある剥片などがある。この層からいくつか放射性炭素による年代特定がされてお り、15,910±230年前から13,900±700年前の間までの年代が出ている。装飾されたオジ カの肩甲骨は、大抵、条線状の溝の線刻でメジカの頭部を刻んだものが多く、これと大 変似た絵が、天井や壁にかなり見られるのである。そのうちの一つに加速器を使って年 代測定を行い、14,480±250年前という年代が得られているが、これは、これらのモー ビルアートがマドレーヌ文化初期に属する可能性をかなり持たせるものである。カス ティージョ洞窟やアストゥリアス州のエル・シエロ洞窟同様、アルタミラ洞窟でこの2 つの地層が移り変わる辺りから見つかったことで起きていた、これらの道具類の年代を 巡る不確かさは、放射性炭素による年代測定で解決されたのである。

洞窟内部には壁画の他、洞窟の別の部分の地面から興味深い遺物や道具類が見つかって いる。特に注目すべきは、彩色画の部屋の地面から見つかった、アルプスカモシカが数 頭描かれた、穴を空けた指揮棒の断片で、これは恐らくマドレーヌ文化初期のものと思 われる。一方主要ギャラリーでは、いくつかの錐や、こての断片、象られた鳥の骨の管 が見つかっている。もっと驚く発見は、「ペクテン」の平らな貝殻3個の発見である。 これは中世の巡礼者が水を飲むのに使った凹状の方の貝殻と対になった平らな方の貝殻 で、その蝶番部分の傍に穴を空けたものが、洞窟の回廊を半分行った当たりの岩塊の下 に隠れていたのである。

アルタミラ洞窟の住人はシカを中心として、時にはバイソンや原牛、馬、あるいはヤギ やアルプスカモシカなどの岩山に生息する動物を狩猟することで生活していた。また食 料を補うものとして、鳥や魚、時にはアザラシの捕獲を行い、海の貝を含むさまざまな ものを採集していた。当時、今よりかなり遠かった海岸で貝を採集し、カサガイ (Patella vulgata)やタマキビガイ (Littorina littorea)を洞窟まで運ぶことは、マ ドレーヌ文化期には重要になってきた。

アルタミラ洞窟全体に関する最も有名な研究は、1935年に発表されたブルイユとオーベ ルマイエルによる研究であるが、その中で、この洞窟は入口ホールから終点にある細い 回廊までの300メートルに亘って、地形的に順番に10の区域に分けられている。そのす べてに壁画はあるが、それらの空間は適当に絵が分布されているのではなく、もうその 先に進めない部屋や回廊など、いわゆる突き当りのエリアに、非常に時間をかけて絵が 描かれているのである。つまり、精力的に絵が描かれている部分としては、ホールの突 き当り左部分にある、一つの部屋(ゾーンI)で、その天井は平らで比較的独立した部屋 である。また、洞窟の中ほどまで行った辺りの左側下方に開口する、一つの部屋(ゾー ンVIあるいは「穴」)や、その他の狭いギャラリーがある。また、屈んだり這っていく必 要のある突き当たりの狭い通路(ゾーンXあるいは「馬の尾」)にもかなり精力的に絵が描 かれている。特に、ゾーンIやゾーンXには、アルタミラ洞窟の壁画全体の95%が集中し ている。全体をざっと見ていくことにしよう。

「彩色画の部屋」あるいは部屋I:

ホールの突き当り左側に、一つの部屋が開口する。そこは既に薄暗く、天井は低いが広 い場所である。ここに、かの有名な多彩色の動物やその他多数の壁画が描かれた天井が ある。現在この部屋は、1925年に作られた天井を支える幅広い壁で、ホールからかなり 切り離された形になっている。一方で、地面は壁画の鑑賞をし易くする為に部分的に掘 り下げられている。

この部屋は長さ18メートル、幅は8から9メートルで、天井の本来の高さは、入口部分で 2メートル、奥の部分で1.1メートルである。この部屋にある彩色画と線刻画のすべてが その天井に描かれており、特に多彩色で描かれた動物のかなりの数のものが2メートル 近くもあることを考えれば、それを描くのはかなり大変であったと思われる。

さまざまな色調の赤に黒を添えて描かれ、時には線刻も使って描かれたこの動物の絵 が、アルタミラ洞窟で最も知られた壁画であり、これらの絵から説明を始めたい。それ は、現在生息するヨーロッパバイソンより古いタイプのバイソンの大きな絵で、優に20 を超すものである。その絵は、特に部屋の左側の天井にあるが、手前右の部分にも保存 は悪く他の絵と離れているものがある。バイソンの側には、メジカや馬が同様の技法で 描かれているが、いわゆるイノシシといわれているものはかなり問題があり、少なくと もそのうちの一つで角と特徴的な顎ひげのあるものは、実際は飛び跳ねるバイソンであ る。動物の向きや姿は、頭をもたげ鳴いているものや、休息を取りながら後ろを振り 返っているもの、速歩で飛び跳ねているもの、じっと立っているものなど、まちまちで ある。

少なくとも、それぞれの間に明らかな関係のない、それぞれが別個の絵であるようだ。 構図の解釈も、マックス・ラファエルや、特に後の構造主義者たちの解釈から、より近 年に近い自然派による、単なるバイソンの群を示すという解釈までさまざまである。し かし忘れてならないのは、当時の人は今我々が見るような状態で、その天井を見ていた わけではないことである。照明も天井との距離も今と異なっていたし、今世紀初めに発 行され、その後計画的に複製されてきている、あくまでも明快ではっきりと分かる壁画 全体のクロッキーのようなものは、当時の人々の手元にはなかったのである。大きなバ イソンや馬、メジカ、頭部のない動物、その他恐らくそれらを補完すると思われるもの の状態を頭の中でイメージすることは、彼らにとって大変複雑極まりないことであった に違いない。

使われた技法は、旧石器時代の芸術で通常使われたものよりも、比較的複合的である。 動物の輪郭は黒の線又は彫刻具で描かれ、その後に着色されれている。着けられた色 は、赤っぽい黄土色、あるいは黒を混ぜあわせた黄土色で、時には黒だけの場合もあ る。複線の線刻を使うことで輪郭はよりはっきりと境界を強調してあり、又目や、体系 的に正しい遠近法で描かれた細い角、鼻先、ヒヅメなどの詳細を表わすのにも複線の線 刻が使われている。量感や肉体としての存在感を出す為に、色調を段階的に変化させて いる他、いくつかの部分で差を出す為色の洗い落としや、削り取りを行ったりしてい る。同じ目的で、天井の隆起をうまく利用したり、動物の絵をこれらの出っ張りにうま くはめ込んだりしている。その結果、さまざまな色調の赤で描かれ、黒や線刻で際立っ た動物が多数集まっている様子は、明るく黄色っぽい天井でくっきりと際立ち、この部 屋に足を踏み入れ、天井を照らしそれを見た者を常に深く揺さぶるのである。

多彩色画の技法や様式が均一で、またある程度大きさも同じ位であることから、さまざ まな研究者が、描き手が一人であったか、あるいは少なくとも指導的な立場の人物がい たと推測しているが、これはかなり理に適ったことである。しかし、この天井に描かれ たすべてのバイソンが同じ時期のものでない可能性があり、いくつかの絵は他のものと 分けるべきである。これで解釈に関する問題がすべて解決したわけではないものの、最 近行われた放射性炭素による測定で、多くの動物の絵(本当の意味での多彩色の絵)が、 14,900から14,100年前のものだと特定された。これは、マドレーヌ文化初期の発展期に 対応する年代である。しかし、他より小さく、線刻が施され抑揚のある色調の、黒い2 頭の相対するバイソンは、もっと後の時代に描かれたようで、13,500から13,100年前頃 のものである。

多彩色のバイソン、あるいはこの後に描かれたらしい他の単彩色のバイソンは、一見何 もない空間に、中心的な構図として描かれたもののように見えるが、実はそれ以前に夥 しい絵が描かれていたこの天井の、最後に描かれた偉大なる作品なのである。バイソン の下、あるいはよく分かるのは部屋の両側部分に、彩色や線刻によるかなりの数の動物 や具象が残っているが、明らかにこれらの年代はまちまちなものであることが分かる。 赤の太い輪郭線で描かれたり、赤の平塗りなどで描かれた動物が多数あるのである。そ の中で際立っているのが、頭部が小さく、腹部が膨らんでいる、純粋に前マドレーヌ文 化様式の描き方をされた馬の集団である。時としてこの馬の上に重ね描きした恰好で、 スミレ色で描かれたいくつかの陰画の手や、赤の陽画で描かれた2つの手も表現されて いる。赤の絵の上に、黒い線で描かれた絵もあり、これはもうマドレーヌ文化の様式で ある。同様に多数描かれたのは、ラ・パシエガ洞窟のギャラリーBにあるような40を超 す赤い「楔型」具象や、いくつかの「格子型」具象、収束する一連の刻線で表わされた 70以上もの「彗星型」具象である。多彩色の動物は、これらすべての絵の上に重ね描き されたものなのである。最後に、この大天井にやはり多数見られるのは、動物及び、動 物の特徴を混ぜ合わせたヒトの姿の線刻画である。これらの絵は、さまざまな彩色画の 上や、あるいは下に刻まれているものである。その中で際立っているものは、顎の部分 と胸に条線状の溝の帯が描かれたメジカの頭部や、ヤギの頭部に相対する恰好で、吠え ているオジカの素晴らしい絵である。このオジカは怪我を負っている様子ではないが、 ペーニャ・デ・カンダモやエル・ブッシュの洞窟、あるいはラ・パシエガ洞窟のギャラ リーBに描かれた類似の動物をすぐさま思い起こさせるものである。一方、この構図 は、カンタブリア地方東部にあるグランデ・デ・オターニェス洞窟にある、マドレーヌ 文化期の小さな壁画集合体の構図と全く同じである。

ブルイユは、この部屋のさまざまな場所で、絵が重ね描きされていることに注目し、旧 石器時代の芸術の年代順を提唱するのに、カスティージョやラ・パシエガ、ペーニャ・ デ・カンダモの洞窟の一部でも見られる重ね描きと並んで、重要な基礎の一つとしたの である。後に、構造主義の学者らは、この大部屋に描かれたすべて、あるいはほとんど すべての絵は、同年代のものであるという傾向をとったが、それはまったく説得力のな いものであった。

ゾーンIIからV:

この部分は、障害物の少ない通り易い通路部分で、傍にたまに狭いギャラリーが僅かに あるくらいである。ギャラリーIIには、可塑性のある粘土の層で覆われた壁面を利用し て、手の指、あるいは先の丸いもので線刻画が描かれた。それはウシ科の動物の頭部1 頭を含む、全体で長さ5メートルにも亘る構図を形成している。このキャンバスは、 もっと先に続いており、そこにはくねったり交錯したりする線で描かれた、抽象具象や 動物の線刻画が描かれている。また、動物の黒の彩色画もいくつかあるが、比較的さま ざまな様式で描かれている。

その先にある、部屋IIIの中心的存在である、かなり浸食が進んだ鍾乳石の滝の部分に は、深彫りの線刻で、大きな馬らしき2つの動物が描かれている。その滝の向こうに、 いくつかの動物の線刻画や黒の彩色画が、互いに関連なく描かれている。

ゾーンIIIの突き当りの左側に、狭いギャラリーが開口しており、そこに、この洞窟の 奥まった部分にある赤の抽象具象がすべて集中している。それらは、内部が3分割され ている4つの楕円具象と、梯子状の絵がほぼ2.5メートルに亘って帯状に描かれたもの、 また、かなり消えかかっているその他の具象である。このように抽象具象をかなり隠れ た場所に描くのは、カスティージョやラ・パシエガの洞窟の例のように、カンタブリア 地方の旧石器時代芸術に良く見られることである。

反対側の壁には、いくつかの庇部分があり、都合のよい縦のキャンバスとなっている。 そこには、細い線で、また時には条線状の線で、オジカやメジカが交錯するように多数 線刻されている。

ゾーンIVやVのような、より開けた回廊には、黒の彩色や線刻の絵が僅かにあるが、大 きな絵の集合体を形成していない。ゾーンIVの始まり部分には、馬やヒトなど動物の、 非常に簡単な線刻画が描かれた石灰岩の塊が、いくつかあるが、これらの絵は地面に落 下する前に描かれたものである。また、左傍の壁には、メジカの素晴らしい完全な線刻 画があり、その輪郭は繰り返し刻線を刻んだもので、頭部と胸には条線状の溝の帯が描 かれている。このメジカの下に描かれた黒い線は、最近になって14,650±140年前のも のだと特定されている。その先には、原牛やバイソンなどの線刻画や、ネコ科の動物ら しきもの、その他の動物の黒い彩色画がある。

部屋VI:

傍にある鍾乳石の滝で出来た広い部屋で、入るには下りていくことから、一般に「穴」 と呼ばれている。この部屋の突き当りの左右に、非常に形式化されたヤギ2頭の絵が描 かれたパネルが、いくつか残っている。これは、ラ・パシエガ洞窟のギャラリーCの突 き当りにある絵に酷似した構図であるが、ラ・パシエガ洞窟のものの方が、技法的にか なり複雑である。他に、非常に単純であるが表現力に満ちたメジカの頭部1つ、またヤ ギの絵もあるが、これは石灰の沈着の影響をかなり受けている。その他この部屋の入口 部分に、黒の線でバイソンが1頭描かれている。これらの絵は、様式的に比較的整合性 があり、様式IIIというよりは、様式IVの非常に古い時代のものに分類出来ると思わ れ、放射性炭素による測定では、15,000年前頃と特定されている。

ゾーンVIIからIXまで:

「穴」からでると、多数の崩落した岩塊や、鍾乳石の再形成したゾーンのある2つの部屋 が続いている。この部分には、壁画は非常に少ない。実際、入口近くから離れていくに つれ、絵は少なくなり、回廊の最終部分(ギャラリーX)で再び多くなってくるのであ る。部屋VIIからIXまでは、形を形成しない黒の印が多数あるのみで、その側に交錯し た奇妙な馬の線刻画がいくつか見られ、突き当たりに、黒で描かれた判別不明な四足動 物1頭描かれているだけである。

ギャラリーX、あるいは「馬の尾」:

くねった狭い回廊の最終部分、約50メートルには、これまでとは打って変ってかなりの 数の黒彩色や線刻の絵があり、また例外的に赤の顔料の残りもいくつかある。黒の彩色 画のなかで、際立っているのはカンタブリア型の四角具象5つで、3つに内分割されて いるものや、整然と内部に梯子状の線があるもの、長辺に膨らみを持つものがある。そ れに関連付けて、それより小さ目の四角具象が3つ、描かれている。これは、先に述べ た具象のように一般的な描き方ではなく、一連の線が辺から外へはみ出している。ま た、少なくとも2つはえがかれている「面」も驚くべきものである。これは、天然の石 灰石の浮彫に、目や鼻の穴、口を黒の彩色で表現したものである。これは、カスティー ジョやラ・ガルマ洞窟の下部ギャラリーにある「面」のいくつかで見られたものと全く同 じ考えに基づくものである。その他は、かなり古い原則に沿った描き方の馬など、いく つかの動物の黒い彩色画や、形を形成しない線、特にバイソンの線刻画、ヤギや、そし てかなりの数のメジカなどが描かれている。まさにこのギャラリーの奥に、この洞窟全 体のなかで最も重要度が高いと思われる、条線状の溝の線刻で描かれたメジカの頭部 や、数は少な目となるがオジカも描かれている。

現在、アルタミラ洞窟に描かれた題材を、僅かでも正確に数え上げるのは、大変難しい ことである。理由は、集合体が大きいことや込み入っていること、また発表されて入手 可能な記録が、あまり詳細なものといえないことなどである。1978年にゴンサレス・エ チェガライが行った計算では、これ自体もあくまで目安に過ぎないが、最低でもはっき りと分かる141の動物があるとしている。その内訳は、バイソン37、特にメジカが多い シカ35、馬33、アルプスカモシカを含むヤギ類24、原牛7、肉食動物らしきもの(ブル イユによれば、かなり疑わしいオオカミ1頭と、ネコ科の動物)2−3、マンモスらしき もの2、シュロ状に分岐した角を持つシカ類(これをヘラジカであるという研究者もい るが、この動物がカンタブリア地方にいたかどうかは推測の域を出ていない)1であ る。他に、陰画や陽画で描かれた手や、少なくとも9つのヒトの姿の線刻画、またいく つかの「面」も記録されている。具象に関しては、優に100を超えており、際立っている のが赤い「楔型」と「櫛型(一種の格子型)」、また何本もの刻線が収束する「掘っ建て 小屋型」あるいは「彗星型」のものである。多彩色の部屋にあるこれらの具象の他、中 央部分にあるいくつかの部屋には、赤で描かれた楕円や梯子状の具象が、また「馬の 尾」には黒で描かれた、でっぱりの付いた四角い具象もある。これらの具象が洞窟の限 られた場所にしか描かれておらず、また、あるタイプの具象が異なったエリアに描かれ ていないということは注目すべきことで、もしかすると年代的にも重要であるかもしれ ない。また、具象が他の絵と比べて目立って多いという状況は、ソリュートレ文化やマ ドレーヌ文化初期においてカンタブリア地方中部ではよく見られたことで、ラ・パシエ ガやカスティージョ、ラス・チメネーアス、ラス・アグアスなどの洞窟にも見られる現 象である。

同様に、バイソンや原牛、馬などに使われた技法や規模は、メジカやオジカに使われた それと比べるとかなり差があることも注目すべきである。

これまで見てきたように、アルタミラ洞窟には、彫刻と沈み彫り以外の、壁画の技法 が、事実上すべて網羅されているといえる。しかしその分布状況は洞窟全体に均一では ない。多彩色の部屋は他の部分と異なり、柔らかい粘土上に描く線刻以外のすべての技 法が見られる。それは恐らく何千年にも亘ってさまざまな時代に、この場所が体系的に 何度も使われてきたことを物語るものである。この部屋以外では、赤の彩色画は希で、 部屋IIIの傍のギャラリーに描かれた具象と、「馬の尾」に残った顔料の名残だけであ り、多彩色の絵ともなると他では全く描かれていない。さまざまな様式を持つ黒線で描 かれた動物の彩色画や、同じく動物の条線状の溝のあるものも含めた線刻画は、壁画の あるセクターすべてに、より均一に見られるものである。

これらの集合体すべての年代やその順序に関しては、研究者の間で意見の分かれるとこ ろである。壁画の年代は、これまでに分かっている住居跡の年代を超えるものと言う学 者もいれば、それと同じ頃という学者もあり、また、最近では、ほとんどの壁画がマド レーヌ文化初期の比較的短期間に描かれたものだとする学者も出てきている。第一のグ ループには、壁画はオーリニャック文化から、多彩色のバイソンが描かれたマドレーヌ 文化末期に当たるとするブルイユも含まれている。ルロア・グーランは、包含層の年代 と壁画の年代を基本的には同時期のものだと考え、その後マドレーヌ文化の初期から中 期より後の時代に人が洞窟に入り、そのさまざまな部分に、様式IVのかなり発展した様 式で単発的にいくつかの線刻画を描いたものだとしている。

ルロア・グーランは、より具体的に黒の彩色画すべてが、比較的同時期に描かれたと提 唱している。これは彼が提唱するいわゆる様式IIIの発展期に描かれたもので、特にマ ドレーヌ文化初期のものとしている。多彩色の部屋の壁画は、マドレーヌ文化の様式 IIIからIVとし、多彩色の動物の絵や楔型具象をその年代のものとしているが、赤い馬 や手、点列、「掘っ建て小屋型」あるいは「彗星型」と呼ばれる具象などはその年代のも のではないようで、その中に含めていない。洞窟全体に見られる線刻画は、彩色画の間 の空間を埋めるように描かれ、サイトが住居として使われたさまざまな時期に描かれた ものであろう。「馬の尾」にある、バイソンと馬のグループ及びマンモスなどの絵は、マ ドレーヌ文化発展期のものと思われる。

これらの解釈すべてを体系的に同意せずとも、中にはかなり可能性の高い見方があると 思われる。我々は、ブルイユが提唱するように、アルタミラ洞窟には前ソリュートレ文 化の壁画があっても全くおかしくないと考えている。むしろ、前ソリュートレ文化期 に、アルタミラに人が住み、絵を描いた可能性を完全に否定することの方が出来ないで あろう。その可能性を持つものは、大パネルの突き当りにある赤い絵や、部屋IVの崩落 した岩にある手あるいは単純な線刻画などである。また、マドレーヌ文化初期より後に 描かれた絵があることも明らかである。少なくとも大天井の小さなバイソンは、放射性 炭素測定では13,500から13,100年前のものと特定されており、これはこの地方における マドレーヌ文化中期に当たる。同様に、アルタミラ洞窟で知られている壁画の大部分 は、現在までにホールで記録されている住居跡の年代に対応しており、ソリュートレ文 化期(それより少し前かもしれないが赤い彩色画、あるいは黒の彩色画の一部、単純な 線刻画など)、及び、多くの絵の描き方や様式から、そして現在でも行われている放射 性炭素年代測定から判断して、マドレーヌ文化初期及び中期(黒い彩色画の一部や条線 状の溝のある線刻画、多彩色画など)に、より多くのものが頻繁に描かれたようであ る。

それゆえ、現在ある資料を基にすると、様式IIIの年代より前の絵があったことを否定 できない。この様式III、つまりソリュートレ文化に対応するものは、少なくとも内部 に描かれた楕円や梯子状の具象で、黒彩色の絵や具象の一部は、恐らく様式IIIのやや 少し進んだ時期、恐らくマドレーヌ文化期に入ってから描かれた可能性がある。線刻画 の動物の一部、少なくとも、類似の絵が描かれたモービルアートで14,500年前辺りのも のと分かっている、条線状の溝があるものや、黒の彩色画の一部、また当然ながら多彩 色画は、様式IVの初期に対応するものである。