LA HAZA

Haza2 Haza4 Haza5 Haza11 Haza13 Haza14 ラ・アサ洞窟は、カンタブリア州のラマーレス・デ・ラ・ビクトリアの町に非常に近 い、カレーラ川の右岸にあるパンド山のふもと、標高160メートルにあるに開口する。 この山には洞窟が多く存在し、中でもコバラナス洞窟には重要な旧石器時代の壁画があ り、また、エル・ミロン洞窟では現在発掘が行われており、少なくともムスチエ文化か ら青銅器時代までの地層が確認され、その近辺における後期旧石器時代の重要な住居跡 であることは明らかである。

パンド山にある洞窟は、地理的に戦略的な位置にある。この辺りは、狩猟や漁が頻繁に 行われた場所であったほか、この場所からは、海岸地帯から高い峠にある牧草地への、 そしてまたもっと先の中央高地へと続く天然の通路を見張ることができる。この通路 は、少なくとも氷河の発達が許す範囲の高さまで、旧石器時代の人たちだけでなく、特 に夏場の有蹄類の群が頻繁に使ったものと思われる。ラ・アサ洞窟は、有史以来カンタ ブリア地方の海岸地域と南にある中央高地とを結ぶ伝統的な交通路であった古い道のま さに傍にある。後期旧石器時代にも、少なくとも寒さが弱まった時代、この道は同じよ うに使われていた可能性があり、アソン川流域の旧石器時代のサイトは、ブルゴス県 の、オホ・グアレーニャカルスト塊にあるラ・パロメーラの洞窟や、ペンチェス洞窟、 アタプエルカ洞窟などとこの道で結ばれていたのであろう。これらの洞窟すべてに壁画 が描かれている。

ラ・アサ洞窟は、エルミリオ・アルカルデ・デル・リオとロレンソ・シエラが1903年9 月13日に発見した。これは、この二人がコバラナス洞窟を発見したちょうど二日後のこ とである。両者が発見したものの、当初の壁画の記録作業は両者の共同作業とはならな かった。1904年1月4日、ロレンソ・シエラはどうやら一人でラ・アサ洞窟を訪れ、壁画 をはじめて写し取ったようである。一方、H.アルカルデ・デル・リオは1906年に、コバ ラナスを含む当時知られていたいくつかの壁画洞窟に関する小冊子を発表している。し かしながら、驚いたことにその本には、ラ・アサ洞窟に関してその存在を挙げているに 過ぎず、「洞窟の事前調査がなされていない」という理由で、名前もきちんと挙げず、こ れといった詳細も載せていない。

二人の発見者がH.ブルイユ神父と共に「カンタブリア地方の洞窟」という作品のなかで、 やっとラ・アサ洞窟の壁画の調査を発表したのは1911年のことだった。その時からラ・ アサ洞窟は、カンタブリア地方の壁画洞窟の一つとして名を連ねることとなった。80年 たった1991年、カンタブリア大学の研究チームがラ・アサ洞窟と隣のコバラナス洞窟に 関する新たな研究を発表し、重要な資料を加え、これまでのデータを更新している。

ラ・アサ洞窟は、北スペインで最も小さな壁画洞窟の一つである。外側の広々とした浅 い洞窟から、いわゆる洞窟そのものへ入っていくのだが、元来は幅2メートルを僅かに 超す入口を通って跪いて入らねばならなかった。内部は最大幅4.5メートル、奥行き8 メートルの唯一の狭い部屋になっていて、部分的に鍾乳石で間仕切りされた形になって いる。しかしながら、旧石器時代の人々が占拠していた当時の洞窟は様子がまったく 違っていたであろう。洞窟は占拠された時から自然の要因や人の手によって大きな変容 を被っている。部屋の中心にある鍾乳石は、考古学包含層の上にあることから占拠の後 の時代に形成されたものである。地面の高さも数十センチ今よりも高かったはずであ る。これは今世紀の中頃、地面を掘って洞窟の観光整備が行われたためであり、現在入 口を保護している石積みの壁や金属の扉が作られたのもその時である。

カンタブリア地方の他の洞窟同様、この洞窟でもこの様な整備工事で考古学包含層は事 実上破壊されてしまっていて、いくつかの出土品に関する断片的な記録があるだけであ る。ロレンソ・シエラは、今世紀の初めいくつかの有蹄類の骨や、フリント製の石器2 つ、珪岩の石器3つを採集しているが、これらのものは少しでも確実な年代特定が出来 るようなものではない。1959年の整備工事中に、ソリュートレ文化風の石器が見つかっ たと言う研究者もいる。

内部の装飾は、右の壁に2つと左の壁に1つの、3つのグループに分けられる。最初のパ ネルで最も目を引くのが2頭の動物である。これはメジカとヤギで、2頭とも左を向いて いる。より完全に描かれているのはヤギの方で、その輪郭は、額の部分は消えてしまっ たようだが、それ以外は完全に表現されており、前脚2本と後脚1本も描かれている。内 側は、3本の線で組み立てられ、この線は前脚の付け根辺りで収束している。この絵の 上にはやはり赤で、メジカの頭部と背が描かれている。この2頭の他に、判別できない 四足動物が1頭と、大文字のDを逆にした具象、形にならない線が何本かある。 2つめのパネルはやはり同じ右の壁にあって、1つめのパネルから3メートル足らずの場 所にある。下の方には、馬と思われる動物が1頭描かれている。体の下の方が赤い染み 状になっている為、当初の研究者達は「葦毛の馬」と呼んだ。パネルの上の方には別の 動物が2頭描かれている。右の絵はこの洞窟で一番保存状態が良い絵である。前脚以外 が完全に描かれた馬であると、明らかに分かる絵である。その左にあるのが、この洞窟 で一番大きい絵で、ほとんど完全に描かれたトナカイである。背と頭部の一部を表わす のに、壁の天然の浮き彫りを利用している。

前述のキャンバスと角を作る奥の壁には、赤の顔料の跡が沢山見える。これは、今日で はほぼ完全に消えてしまっているものの、かつて絵が描かれていたところであろう。 キャンバスの真ん中に、右を向いた動物らしき姿が1頭なんとか見分けられるくらいで ある。それゆえ、前述のキャンバスに描かれている保存状態の良い3つの動物の絵に、 向かい合う位置にある。

3つめの絵のグループは左の壁にあり、洞窟の一番奥に位置する。四角の具象1つと別の 赤い顔料の残りの他に、唯一形を成す絵は、赤い、ほぼ完全に描かれた1頭の馬であ る。その長い頭部を1本の線が横切っている。

近くのコバラナス洞窟と共通する特徴を多く持っているが、ここの壁画にはラ・アサ洞 窟独特の特徴を示すものがある。図像の編成もその特徴の一つである。コバラナス洞窟 では、メジカが多く描かれていたのに対して、この洞窟の代表的な題材は馬であり、3 頭も描かれている。また、トナカイやヤギ、メジカもそれぞれ1頭ずつ描かれ、判別で きない四足動物も1,2頭表現されている。

使われた技法は、コバラナス洞窟と同じ、赤の彩色である。しかしコバラナス洞窟で中 心的であった、点を離して描くスタンプ法は、このラ・アサ洞窟では少なく、トナカイ の肩の部分を示す線に明らかに分かるだけである。この洞窟で絵を描いた人々は、彩色 で線を描いたり、時には点をつなげて描くスタンプ法を好んだ。刻線はどの絵にも使わ れていない。

空間の構成に関しては、まずこの洞窟が装飾され、しかもすべての絵がほの暗い場所に 描かれているという事実自体が重要である。この事実は、洞窟の外の部分は、後期旧石 器時代の当初、深彫りの線刻画や沈み彫りを描く場所としてしか使われなかったいう伝 統的な考えと矛盾する。この様な技法が外光に照らされる洞窟の外部で使われたという のは、絵を刻むという描き方は時間がかかるからである。しかしながら、この様な場所 でも彩色画が描かれる可能性が排除されるわけではなく、ラ・アサ洞窟以外にも、ラ・ パシエガのギャラリーBとCへの入口や, ラ・フエンテ・デ・サリン、ラ・ロハなど、 他のカンタブリア地方の洞窟にも見られることである。

様式の特徴は、コバラナス洞窟の時代と同じようだ。唯一描かれたメジカには、コバラ ナス洞窟のメジカの描きぶりのの特徴がいくつか見られる。線を離して表現した開いた 口や、額の線と頚部から背にかけての2本の線を延長し、先を閉じないで表現したV字の 耳などである。トナカイもコバラナス洞窟のトナカイと多くの共通点を持っている。両 方の絵とも、内部には同じ詳細が表現されている。例えば、背峰から出て前脚の付け根 で収束する2本の線で肩甲骨の部分を表わしたり、二重線で腹部を表わしたりする表現 である。また、ポーズも同じで、左を向いて歩いている姿で、1本の脚が前に出ている 形で描かれている。馬も非常に特徴的な描きぶりで表現されている。段々になり「線 影」のあるタテガミ、「カモのクチバシ」または「ヘラ」と呼ばれる、丸くなって下の方に 伸びた鼻先などで、これは洞窟の一番奥の部分に描かれた馬に見られる特徴である。

ここにある動物の小さな集合体には非常に均質性があり、最近指摘された四角の具象も その中にうまくあてはまるものである。これらの特徴は、カンタブリア地方では今から 21,000〜16,500年前のソリュートレ文化に固有のものである。また、このサイトからソ リュートレ文化の平らな仕上げの鏃が発見されていることから、少なくともこの時代に 人間の集団が洞窟を占拠したことが分かっている。