この洞窟は通常の洞窟としてよりも、それほど大きくはないにせよ、非常に地形的に複 雑になった鍾乳洞として話すべきであろう。後期旧石器時代、ラ・パシエガ洞窟には、 3つの入口があった。その入口は、互いに連絡し合う部屋や通路につながり、中にはレ ベルが異なるものもある。1950年代と60年代に行われた観光用の整備で、廃材となった 石で何ヶ所かが通れなくなり、仕切り壁が作られたり、別の時期に次々と新たに入口を 設けるなど、地形はますますややこしくなってしまった。
地形的に4つの大きな範囲に分類されている。ギャラリーAとB,C、そして西にあるギャ ラリーCと東にあるギャラリーAとBの中間の区域をまとめたゾーンDの4つのグループで ある。これは、図像的に見て後期旧石器時代にはこの区別された2つまたは3つの集合体 が独立して機能していたことを意味している。つまり、東の部分であるギャラリーBか らAにかけてとゾーンDの東の部分と、西の部分であるギャラリーCと、中央の部分であ るゾーンDの中央部分である。このゾーンDは、前の2つの部分と独立していた可能性、 または場合によってはギャラリーCの終わりの部分としての機能を果たしていた可能性 がある。1952年、J.カルバージョが、また1952年にJ.ゴンサレス・エチェガライが、 観光用の整備工事と同時に行った発掘で、ギャラリーCとBの本来の入口でソリュートレ 文化の道具類や通常の旧石器時代の人々の占拠跡が確認されている。ギャラリーBで は、マドレーヌ文化前期らしいものも出ている。このギャラリーBとCへの入口は当然な がら後期旧石器時代には主要な出入り口であったであろうし、もしかすると唯一のもの であったかもしれない。