[1] プロローグ:オオツノシカ狩り
今からおよそ3万6千年前、
最終氷期でも最も寒冷化が進み始めた頃の話である。
ある年の晩秋、イベリア半島北部、カンタブリア山系中央部のカスティージョ山に連なる山々は、既にその頂がうっすらと雪に覆われ、低く垂れ下がった鉛色の空からは小糠のような雪が降り続いていた。
そして、ある日の昼下がり、カスティ−ジョ山麓の草地を横切る渓流沿いの谷間では、ホラアナグマの灰色の毛皮で身をまとったひとりの大柄な男が身の丈ほどの槍を片手にじりじりと獲物に接近しつつあった。身の丈は約1メートル75センチ。幅広の鼻と頬以外は赤い頭髪と髭に覆われ、やや前がかりな肢体は一見頑健に見えるものの、彫りの深い色白の顔面にはやや窶れがみえ、目蓋におおいかぶさるように隆起した骨太の眉山だけが際立っていた。そして、その眉山の下の凹みの奥に、透きとうるような蒼い眼がどこか虚ろに輝いていた。
男から20メートルほど前方でシラカンバの樹皮を食んでいた獲物は巾2メートルはあろう枝角をはやしたオスのオオツノジカだった。体長約3メートル、肩高約2メートル半。重さはゆうに500キロは超える最近ではめったに見ない巨大なオオツノジカだった。
「この獲物をしとめれば一族25人が30日は食える」と男は思った。
身近に危険を察したためか獲物は動きをピタリと止め、頭を尻にむけてじっと周囲の様子をうかがっていた。
男は潅木の茂みに身を隠し、息を凝らして獲物に狙いを定めた。
そして、男が合図の左手をわずかにもたげた時だった。
異変に気付いた獲物はふと男の方角を見た。と、男はやおら立ちあがり、かまえていた槍を渾身の力を込めて投げ放った。
驚いたオオツノジカではあったがそのときは既に遅かった。オオツノジカが後ろ足を蹴って走り出そうとしたその時には槍は鋭くわき腹に突き刺さり、その傷口からは赤黒い血が噴き出していた。二の槍が反対方向から突き刺ささったのはほとんど同時であった。オオツノジカは悲鳴をあげながら狂ったように前方に走り出した。が、行く手は既に他の男たちでふさがれていた。恐怖の余り気が転倒したオオツノジカは、かまわず男たちの中に突進した。男たちは持っていた槍や棍棒で獲物に立ち向かい、カスティージョの谷間はオオツノジカと男たちの壮絶な死闘の場と化した。傷ついてはいたものの鋭利な角と強力な蹴りで必死に活路を見出そうとする獲物を仕留めるのは、頑強な男たちにとっても容易ではなかった。最初に行く手を遮ろうとした男は獲物の鋭い角先で下腹をえぐられ、宙に舞いあがってそのまま地べたに叩きつけられた。次に獲物の後方から第三の槍をつきさそうとした男は、あえなく後ろ足で蹴られ、続けさま宙に放り出された。男たちはそれでも執拗に獲物に肉迫した。そして、血まみれになった獲物がたまらず渓流沿いの木立の中に身を隠そうとしたそのときであった。獲物の姿が突然消え、それを見た男たちはようやく息をつくことができた。小走りに近づいて見ると獲物は、男たちがあらかじめしつらえておいた深さ2メートルほどの大きな穴に落ち込み、血と泥にまみれた四肢を仰向けになってばたつかせていた。それから男たちはその落とし穴に競ってなだれこみ、あるものは丸太で獲物の眉間を打ち、あるものは槍で何度も胸や腹を突いた。そして、あの一番槍を放った男が獲物の腹にささっていた自分の槍をひきぬき、最後の一撃を心臓部めがけて打ち込んだ。獲物の血がじわじわと槍の柄を伝って地面にしたたり落ちた。オオツノジカの動きはそこで止まった。それでもしばし眼をしばたかせてはいたが、やがて静かに目蓋を閉じ、ただの肉の塊と化した。
このオスのオオツノジカには、メスが1頭帯同していたが、そのメスは遠く離れた川岸の灌木の影で暫く伴侶の逃げまどう様子をうかがっていた。が、伴侶が穴の中に消え、動かなくなったのを見届けると、静かに川を渡り、向こう岸の岩場の影に姿を消した。かわりに死肉の匂いにひかれて現れたドールの群れが7頭ばかり、灌木の繁みの中からじっとこちら側の様子をうかがっていた。
大きな獲物をしとめた男たちではあったが、それは必ずしも歓びだけではなかった。
この狩りに参加したのは一族二家族の親兄弟12人。そのうち獲物の角にかかって地面に叩き付けられた男は、脇腹から飛び出した臓器を自ら手で押し戻しながら息絶えた。後ろ足で蹴られたのはやや年配の男で、右足の太ももを切り裂かれ、動脈を破られて暫く地べたをのたうちまわっていたがやがて血と泥の海の中で息絶えた。他の10人の男たちも無傷ではなかった。ひとりは左肩を角でつかれて鎖骨をへし折られ、多くの者が獲物に触れて躯中に打撲をおっていた。落とし穴の中の誰もが血と汗と泥にまみれていた。
灌木の茂みの中からまたあらたに白髪の老人がひとり、若い女たちを4人ほど伴って現れたのは、男たちが獲物にとどめを刺して間もなくしてからであった。老人はこの赤毛の一族の長老で、よく鞣したオジカの毛皮で身を包み、痩せこけたその顔面には深い皺が刻まれていた。老人は、落し穴に近づき、中に横たわった獲物に無言の祈りを捧げ、他の男たちもそれにならって頭を垂れた。その後、長老は皆を引き連れ、犠牲になった男たちのもとへ向った。そして、地べたで息絶えた男2人を、男たちの手で近場の岩陰に埋めさせ、同じように皆で無言の祈りを捧げた。降り続いていた小糠のような雪はいつしか大粒の雪と化し、背後に見えていたあの円錐状のカスティージョの山も淡く雪煙に霞んでいた。
犠牲者の埋葬を終えた後、男も女も全員で獲物の解体作業にとりかかった。
通常、獲物がヤギやコジカ程度の小動物であれば、そのまま居住地に運んで解体したが、バイソンやオオツノジカのように500キロを超えるような大モノの場合は、しとめたその場で解体し、小分けして居住地に運ぶのが常だった。
解体はまず獲物の血抜きと頸部の切断から始まった。一番槍の男が鋭い石刃で表皮を切り裂き、その刃の先が大動脈に達するやまだ体内に残っていた生暖かい血がどくどくと外部に流れ出た。男は更に頚の骨に石の斧を打ちつけ、頭と胴が切り離された。巨大な枝角を誇るオオツノジカの頭部は男たち4人がかりで丁寧に老人に手渡され、女たちが運んできた牛革の袋に納められた。
次は、臓器を取り出す番であった。腹部は槍で大分傷んでいたが、今度は二番槍の男が注意深く腹部を切り裂き、腹膜をべりべりと剥がしながら、まだ生暖かい臓器を胃、腸、膀胱の順に取り出していった。胃と腸はかなり損傷が激しく、ドロドロの汚物や中身が体内にこぼれ出ていた。それでも臓器はそれぞれ個別に牛革の袋に納められ、女たちに手渡された。心臓と肺、肝臓は肋骨を割って取り出し、同様に牛革の袋に納められた。残った食道や気管や筋も根元で切断し、牛革の袋に納めて女たちに手渡された。
臓器を取り出した後は水洗いだった。これは女たちの仕事で渓流から汲んできた水で臓器を取り出したあとをよく洗い、体内に残っている血や汚物をきれいに洗い流した。
水洗いの次は皮剥ぎであった。一番槍の男が同じ石刃で4本の足くびの周りを丸く切り、脚の内側から下腹、そして喉にかけてそれぞれ同様のメスを入れた。あとは男たちが手分けして内から外にめくるように頭まで表皮を剥いでいった。その際、2本の巨大な枝角は頭蓋から引き抜かれ頭の表皮と一緒に躯からとりはずされた。剥いだ毛皮は女たちの手で丸められ、用意してきた鹿革の紐で枝角と一緒にくくられた。
皮剥ぎが済むといよいよ解体だった。一番槍の男が、まず大きな石斧を頚の関節に打ち込み、頭蓋を胴体から切り離した。次に他の男たちによって脚の関節に石斧が打ち込まれ、肉の塊となった脚部4本が胴体から切り離なされた。胴体は肋の下のあたりで背骨に斧を打ち込み腰部と切り離された。肋にもたっぷりと肉がついていた。そして切断された部位はそれぞれ更に担ぎやすい大きさに切断されて革紐でくくられた。解体の後、落とし穴の中には体内からこぼれ落ちた臓器の切れ端や汚物以外に何も残らなかった。
赤毛の一族が、こうしてバラバラにした獲物を手分けして担ぎ、その場からそろって立ち去ろうとした時であった。渓流の対岸の岩場の影に何かモノの動く気配を男のひとりが感じた。男は荷をおろし、数歩渓流に近づいてその岩場の影を注視した。そして、更に渓流に近づき、水際に脚がかかった時だった。ヒトらしきものがサッと岩場の影から走り去るのを男は見た。
それはまぎれもなく2本脚のヒトだった。身の丈は自分よりもやや高く、髪の色は黒。足長でやや細身の躯に薄手の鹿皮の衣をまとっていた。男は振り返って仲間に合図を送り、対岸を指差した。
黒髪の細身の男が向こう岸から走り去るのは、長老と他の者たちにも見えていた。一番槍の男が長老の顔色をうかがった。対岸を北にむかって逃げてゆく男の姿を、長老は暫く眼で追っていた。そして、一番槍の男が何かモノを言おうとしたところだった。長老は喉から絞り出すような太いうなり声を発し、右手を横に振った。
赤毛の一族の者が、自分たちとはやや躯付きの違う足長の族を目撃したのは、実は、その時が初めてではなかった。髪の毛が黒く足長の族のことは、ずっと昔から伝え聞いていたし、ただ、ここ数年は特にその足長の姿に接する機会が増え、つい前の前の月にも、東の白い山並みに近い狩り場から帰還した男たちから、その足長の族たちが大勢でオーロックスを追っていたという報告を受けていた。東の白い山並みとは、今でいうピレネー山脈のことで、赤毛の一族は時折同じ種族の集団と共同でマンモスやバイソンなど大型の獲物の狩りに遠征することがあった。男はそんな折に、自分らとは少し変わった異族の集団をたまたま眼にしたのであった。あの足長の連中はダレなのか。一体どこからやってきたのか。このさき連中はどうしようというのか。老人とその一族は不安にかられながら帰還の途についた。
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