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「気通信大学の黎明期」


序:気通信大学の黎明期の研究
  • 世界最初のプリント配線の回路
  • 自由闊達な雰囲気
  • 技官や卒業生のネットワーク
  • 大学の研究

  • 機器分析の時代を牽引した電通大
  • NMR分光
  • レーザー分光
  • 質量分光のインビーム
  • 電子顕微鏡

  • 世界最初の電波時計
  • 凧型アンテナ
  • 高山の電波通信・地下探査

  • 真空管から固体素子へ
  • 半導体電子素子の研究
  • 超伝導回路の研究

  • 南極観測と雪原の電波の吸収

    電通大の宇宙研究

    各学科の歴史

    わが国初のNMR分光

    日本のレーザー分光も電通大

    日本最初の電波時計は電通大での発明

    星間空間実験装置




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    我が国初のNMR分光器



    1949年、逓信講習所を礎に電気通信大学が設立され、希望に燃える新入学生とともに新進気鋭の若手教官が学長寺沢貫一の下に集まってきて学生の教育に当たった。化学では東大の木村健二郎教授の推薦で大学院四年生だった藤原鎮男(1918~)が迎えられ講義と化学実験をひとりで担当した。

    調布のD棟が竣工して一般教育が移転することになるが、都市ガスは無く当時はプロパンも無かったから、府中の競馬場から大量の馬糞を運んできてD棟の東端に穴を掘って埋め、醗酵して発生するメタンガスを使って学生実験のバーナーの燃料ガスにしたと言う。

    1949年6月に学長は米国で金属ゲルマニウムを使って真空管に代わる装置が出来たらしい日本でもやらねばと教官達に持ち掛けた。木村教授の秘蔵する300mgの酸化ゲルマニウムを借り受けてきた藤原は苦心の末、米粒大の金属ゲルマニウムを酸化物から取り出すことに成功する。金属ゲルマニウムを最初に作ったのは日本では電気試験所(後の電子総研)よりも電気通信大学が早かったという。この日本最初の金属ゲルマニウムは直ちに物理や電気工学の教官にバトンタッチされたが、トランジスタ化が実現したかどうか、その金属ゲルマニウムのその後の行方は詳らかではない。しかし開学当時の雰囲気が感じられるエピソードである。

    翌1950年になると今回の主題である核磁気共鳴の装置づくりがはじまる。この手製の装置で日本では最初の核磁気共鳴(NMR)が水素と弗素と臭素とインジウムとナトリウム、で検出され、銅の原子核の磁気能率が世界で始めて測定されて米国の原子力委員会に登録され、同じ原子核でも化合物によって周波数が異なること(化学シフトという)がコバルトの原子核でも発見された(1950~1951)。この成果は当時核磁気共鳴の唯一の先進国米国での研究に決してしてひけをとるものでなかった

    物質の微小な磁性が電磁波を吸収する磁気共鳴の最初の発見は1945年ソ連のカザン大学(ソ連 タタール自治共和国)のザボイスキーで、硫酸銅をいれた試験管にコイルを巻つけそれを磁場の中に置いてコイルに高周波電流を流して電波の共鳴吸収を見つけたのである。磁場の中に硫酸銅のような電子スピンによる常磁性体を置いてそれに高周波電流を掛けるのは1930年代からオランダのホルターが磁気緩和の実験として世界の俊秀を集めて行っていたが磁気共鳴の最初の発見は果たせなかったようである。

    ホルターは電子スピンでなく核磁気の発見をラビと競っており、ホルターの検出方法が磁気共鳴法による低温での温度変化というきわめて検出感度の悪い方法のため、分子線を使ったラビに先を越されたことはよくしられている。

    ザボイスキーの電子スピン共鳴の発見の翌年、米国ではハーバード大のブレンベルゲン等とスタンフォード大のブロッホは略同時に石油と水に含まれる水素原子の原子核の常磁性の共鳴をそれぞれ異なる手法で発見した。(1952年ノーベル物理学賞は核磁気共鳴ブロッホやブレンベルゲンなど)

    この磁気共鳴の意義の重要さに気付き将来の化学への応用を逸早く指摘し実験を始めようとしたのは北大の応電研の糠沢健二であったが、手製の装置を作り磁気共鳴のシグナルを検出し水素、弗素、臭素、インジウム、ナトリウム、銅、コバルトの原子核の磁気能率を測定したのは電気通信大学の藤原鎮男と林昭一(1927~1992)であった。

    藤原が核磁気共鳴を始めることになったのは、電気通信大学へ移る直前に始めた高周波滴定が直接のきっかけになっている。高周波滴定は容量分析のビーカーの周りに電線を巻きこれを高周波発振器のコイルとし滴定で溶液の組成が変わるのをインピーダンスの変化として検出するのである。藤原は電車のなかで友人から磁気共鳴の話を聞いた時、今の高周波滴定装置に磁場を掛けるだけで電波の周波数も回路も似ていると考え、早速研究を始めることにした。

    電気通信大学が開校して一年ぐらいで、まだ誰も見たことのない核磁気共鳴装置を製作しようという藤原の提案は物理学の神戸謙次郎などの理論家の協力を得たが、先ず先立つ予算の点でつまずいた。学長寺沢は何とか学内予算を使ってと教授会を開いて丸二日間教授層を説得したが、結局賛同は得られなかった。誰も作ったこともない聞いたこともない装置に金はかけられぬというのが第一の理由、そしてまだ30歳の助教授にどうして大金が任せられるかが教授の意見だったようである。

    教授だけの教授会が若手のためと称して助教授の意見を反映しないところは今と同じである。寺沢はやむなく学長決裁で7万円と自分のポケットから5万円を出し、藤原は自宅から5万円を工面して、これで装置をつくろうと決心する。昭和25年の公務員初任給が3,148円、公務員の給与ベースが6,307円のころである。

    敗戦後の当時には電解鉄が日本に1トンしかなかった。藤原は寺沢の紹介で磁石の大家 茅誠司に会い、東芝研究所の和田重暢を紹介されてモータに使う電解鉄120kgを融通してもらい、当時貴重な2.6mmエナメル銅線220kgを川崎の東芝から当時の目黒の電気通信大学に運ぶ、電線は旋盤で巻くが第一回目は通電して電圧を上げ始めると直ぐショートした。当時のエナメルの絶縁が悪かったのである。再び和田重暢の厚意で銅線を融通してもらい15A流せるコイルが出来上がる、磁石に取りつけて崩れないように左右とも両側に真鍮板と5mmのベークライトで支える。電流を通したとき真鍮板に渦電流が生じないよう円板を十文字に切る。磁力線の密度も手製の回路を組んで測定し1万分の1の精度で安定していることを確かめる。磁場は3500ガウスを中心に上下2000ガウスが電流値と比例していた。日本では結晶を観測する広幅各磁気共鳴は阪大の伊藤順吉が研究を始めていたが化学の分野に使う高分解能核磁気共鳴はなかった、そのためには磁場の百万分の一の精度で徐々に正確に動かさねばならない。磁極の付近に取りつけた別のコイルに弱い電流を流すが摺導抵抗では目が荒い、苦心の末金魚鉢に希硫酸を入れ水の電気分解の電流を使い、金魚鉢を上下して電極の面積を微妙に調節して目的を果たした。 (展示の茶色の大きな電磁石がそのままの姿のNMR磁石である。) 電波の電気回路は化学に助手になった無線講出身の林昭一が独特の高級技術でインピーダンスの高精度測定のブリッジを組む。高周波の周波数は林がレシーバーで電波監理局の標準電波を常に聞いて測定毎に修正した。

    林の協力がなければ高分解能核磁気共鳴装置は恐らく非常に難しかったと思われる。林は今年(1992)四月初めに永眠された。この記事のため三月末に療養中の彼と話し合ったのが最後であった。

    こうして測定された原子核の磁気能率の種類は前に述べた水素、弗素、ナトリウム、銅、コバルトの他、燐、臭素、インジウムがそれぞれの同位体を区別して観測された。この成果は国内より米国で評価されハーバード大、スタンフォード大と並んで核磁気共鳴(NMR)を開発していたイリノイ大のグトウスキーが渡航が難しかった時期の藤原を招く。グトウスキーのもとには核磁気共鳴(NMR)を化学に応用しようという世界の研究者が集まっていた。

    1955年帰国した藤原を中心に国内に高分解能NMRの化学への応用を目指すグループが鉄道技研、東工試(化学研)、東大教養、日大、資源石炭研、武蔵野通研、高校教師で作られる。装置は電気通信大学の周波数27MHzの高分解能NMRで磁石はイリノイ大から運んだ永久磁石を使っていた。

    間もなく文部省の補助を得て60MHzの装置を開発するが、常に電気通信大学がNMRについては先導的であった。

    1960年代の初頭から始まるNMRの有機化学への応用についても電通大の助手の荒田洋治、中川講師、院生として電通大に通っていた清水博らが積極的に貢献し、電通大の助手から原子力研に移った山口一郎の扱うVarian社の56MHzの装置は多くの有機化学者の利用するところとなった。当時の有機化学者で電通大の名を知らぬ者は殆どいなかったと言われるくらいであった。 化学の世界では60年代半ばから、本格的な機器分析の時代に入り、その先頭にNMRが走っていたのである。 電気通信大学で開発した高分解能NMR装置は日本電子等のメーカーに技術移転し、機器分析の大学の化学の研究者は次第に自分で装置をつくる人に減り、以後の多くの研究者は予算は取ってくるが企業の作った装置を購入するユーザーになって開発メーカーに比重が移っていく。 最近の大型科学技術の装置開発では、欧米では大学の研究者と大学付属の工場が協力し、日本の場合は大学の研究者が企業に開発を含めて発注するという特徴があり日本では企業の維持費や利潤まで講座費や科研費が負担していると言われているが、大学の研究開発能力の発展だけを考えても、大学付属工場の充実を含め大学研究者の装置づくりに、もっと力を注ぎたいものである。(歴史資料館の「昔日の機器・番外編」1992年編を元に多少削除追加、2008年11月)

    追記:
    電通大で、この装置を作り、操作し 手に触れて電通大を通過してNMRの仕事をした研究者は多い。大学教授だけでも藤原(東大)、片山(東大)、清水(東大)、荒田(東大)、山口(上智大)、など。荒田は藤原の後、数十年にわたり、高分解能NMRの研究の第一人者として学会をリードしてきた。彼が電通大の助手のころ、化学実験のとき以外はD棟1階の窓辺の机で、朝から晩まで勉強している姿を見ていた電通大生も多かったことであろう。 林は東大助手のあと電通大の技官鵜沢洵とともに理研のNMR室の建設にあたり、その後日本電子にうつる。鵜沢はそのごも数十年理研のNMR室長として、今日最もすぐれた高分解能NMR装置群のある理研のNMRの基礎をかためた。一番古いNMRから10Tの超電導磁石のNMRまでNMRの装置について鵜沢の右に出るものはなかった。林は日本電子で人員整理が行われたとき部下の再就職を見届け退職した。その後東急ハンズで売り子をしていると聞き、1992年4月に電話したときは、癌で入院中、一時帰宅のときであった。最後の言葉は、「私はすぐまた病院に帰らなくちゃーならないんで、最初のNMR磁石のことなら、電通大学報の第3巻に書いてありますよ」であった。(2008/10/08)


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