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更新日:2022年10月26日

 自己紹介

 ホシくん 賛(1)

 ホシくん 賛(2)

 招かれざる同居者
 または時季外れの怪談


 アシダカちゃんの失踪

 決闘の図像学(1)

 決闘の図像学(2)

 決闘の図像学(3)
 クハガタ兜の由来


 決闘の図像学(4)
 クハガタ――記憶の断絶


 三月は雛の月(その一)
  michikoのお雛さま


 三月は雛の月(その二)
  雛祭りの苦い思い出


 もう6月……
  久しぶりの共同生活(1)


 もう7月……今日は七夕
  久しぶりの共同生活(2)


 もう9月も半ば……
 山荘で見た映画の話(1)


 もう10月も半ばすぎ……
 山荘で見た映画の話(2-1)


 10月もそろそろ終わり
 山荘で見た映画の話(2-2)



michikoの部屋


決闘の図像学(3)

 さて、「決闘の図像学」も今回で三回目。先回予告したとおり、ホシくんが鉢巻きに挟んだ二本の角のそもそもの由来について、一気にその核心に迫り、語り終えたいと思っていたのですが、実はそうもいかなくなりました。というのも、当初思っていたのとは異なり、それほど簡単には語り終えられない様々な困難にぶつかってしまったからです。
 そんなわけで、また思ったよりも時間が空いてしまいましたので、これまでの話の流れを忘れてしまった方は、前々回、前回(「決闘の図像学(1)、(2)」)までの話にまずざっと目を通していただければ幸いです。
 
 日本で武将たちが、ちょうど二本の角を生やしたように見える「鍬形」付き兜をかぶるようになったのは、地中海沿岸地域の例よりもかなり時代が下り、平安時代の中・後期と考えられています。
最古の鉄鍬形三点の象嵌イラスト
  「鍬形」という呼称の由来についてさまざまな辞典・事典類を調べてみると、文字通り、古代の鍬をかたどっているとする説が一般的ですが、いまだ定説がないと述べている論者(日本大百科全書)さえいます。また、現代の日本人にとって、端午の節句などでお馴染みの兜に付けられた「鍬形」が「古代鍬の形」(日本国語大辞典)を意味すると言われても、どこが似ているのかさっぱり分からない、というのが正直なところでしょう。
 具体的な話を始める前にまず、現存する最古の鍬形、平安時代の作とされる「鉄鍬形」三点を象嵌細部の精確なイラストでご紹介しておきましょう。1は清水(せいすい)寺(長野県)の「鉄雲龍文象嵌鍬形」、2は八代神社(三重県)の「鉄獅噛文金銅象嵌鍬形」、3は法住寺殿跡(京都市)から出土した「鉄龍文金銀象嵌鍬形」を示しています。2は、1と3に見られる耳(あるいは角)の部分が失われており、歯噛みした獅子を象る台の部分だけが残っています。実物の写真はネットで検索すればすぐに見つけることができますが、象嵌の細部はこのイラストの方がよく分かります。
正倉院伝世の獅噛文の古代裂
   因みに2の「獅噛文」は正倉院伝世の染色品に見られる文様で、中国六朝風の様式を留め、先回「決闘の図像学(2)」でご紹介した春日大社の鉄鍬形など鎌倉時代の鍬形にはしばしば用いられていますが、この八代神社のものはその初期の例だと言えるでしょう。龍も獅子も強大な威勢・威力を示す想像上の動物として、武将たちの武運を左右する呪術的あるいは魔除け的意味を持っていたのかもしれません。
 清水寺の鍬形は坂上田村麻呂(758-811)が蝦夷(えみし)征討後に納めたとの伝説があり、八代神社の鍬形については平安前期とする見方もありますが、研究者による製作技法、とくにその象嵌技法の科学的分析データを踏まえた結論によれば、やはり平安後期のものと考えられます。法住寺跡から出土した鍬形(1183)は、後白河法王方の武将が実戦に身に付けた後に奉納したものと見られています。また、これら三点は、その高度な技術水準から、いずれも京都の職人の手になるものと推測されています。鎌倉時代末の作とされる春日大社の鉄鍬形と比べてみると、これら平安後期の作では、両辺の耳にあたる部分がU字形底辺部からほぼまっすぐ平行に近い間隔を保って伸びていることが確認できます。
 さて、この最古の鍬形のどこが「古代鍬」に似ているというのでしょうか。実物を見せられても、やはり納得がいきませんよね。
鉄鍬先出土品(7世紀)と
刃先を付けた鍬のイメージ図
  これには、辞典・事典類の記載の仕方にも問題があります。また、この「鍬形」という呼称が指し示すものが時代に伴って変化してしまった、つまりある時期から、「鍬形」が本来意味していたものが忘れ去られてしまったという歴史的な事情も大きく関わっているのではないかとmichikoは考えています。今回相当に時間をかけて、「古代鍬」とはどのようなものであったのかについて調べ、考古学関係の資料や論文なども読んでようやく辿り着いた結論は、この「鍬形」とは、「古代鍬」そのものではなく、「古代鍬の刃先」をかたどったものらしいということでした。その後、ある考古学者が論文中の閑話として、「鍬形」についての国語辞書類の記載に苦言を呈し、古代鍬の刃先との関係に触れているのに出会ったとき、michikoはようやく自分の推測が正しかったという確信を得たのです。
 この辞典の記載についてもう少し補足しておくと、実はずっと気になりながら確認を怠っていた国史大辞典という辞典がありました。それを最近になってようやく閲覧することができたのですが、そこには正しく、「形状が古代の鍬の刃に酷似することから鍬形という」と記されていました。この記載ならば、古代の「鍬」そのものではなく、「刃」がその名前の由来なのだと分かりますから、なあんだ、やはりもっと早くこちらを調べていれば大分時間の節約ができたのにな……とちょっと残念に思ったのですが、調査・研究というものは紆余曲折する間にも思いがけなく貴重な知識を得たり、それをきっかけに認識が深まったりすることがよくあり、今回も長引いた寄り道分の成果は十分得られたと実感しています。そう、いわゆる、転んでも只では起きない、という精神ですね。よく知られた「ずりょうは倒るる所に土を掴め」という言葉は、まさしく「鉄鍬形」の生まれた平安後期の受領の強欲さを譬えたものですが、少なくとも知的活動において強欲であるのは決して悪いことではないと思います(笑)。
 さて、本題に戻りましょう。いつまでたってもクダクダと周辺を巡るばかりで一向「本題」に辿り着かないというのは、まるで『トリストラム・シャンディ』のようですが……あはは……やはり長い間西洋文学・文化の方をメインに勉強してきたものですから……この譬えが分からない方は無視して下さい。本論とは全く関係ありません。
 日本の広い地域で稲作が普及し、鉄製の農耕具が使用されて生産性が増大した時期は、考古学資料から五世紀頃(古墳時代)以降とされ、牛馬もその頃に中国大陸から入ってきた役畜だったと見られています。
 この鉄製の農耕具を代表し、開墾と耕作に大きく寄与したのが鍬と鋤だったわけですが、鉄は高価であったため、刃床部がすべて金属製である現代の金鍬・金鋤とは異なり、木製の刃床(風呂)の先にU字形の鉄の刃をかぶせる形で使用されていました。このような鉄製刃先は、古墳時代以降の九州から関西・東海、そして当時は辺境とされた関東・東北(蝦夷=えみし)に至るまで、広い地域の遺跡から数多く出土しており、稲作を基礎とする王権の成立、そして律令制への移行の中で、鉄の刃先がもたらした土地の生産性の飛躍的向上は、当時のさまざまな階層の人々に広く実感され、認識されていたものと思われます。
稲作の豊饒を祝う
  古代日本では、稲が魂をもつとするアニミズム的呪術信仰が記紀などに見られる王権神話と結びつき、天皇は稲作の豊穣にかかわる神の代理人としてその儀礼を行っていました。ある国文学者が指摘しているとおり、『古事記』で日本初代の天皇とされる神武天皇の系譜には、「稲とその穂への連想をもった名がずらりと並んでいる」のです。つまり、古代日本の国家はその起源神話において稲作を自身の基盤と認識していた、国、そしてその国を統べる天皇の存立基盤はひとえに稲作に置かれていた、というわけでした。現在でも毎年十一月に行われている「新嘗祭」(天皇即位の年は「大嘗祭」と呼ばれ、盛大に執り行われる)は直接その伝統を汲む儀式ですが、それではなぜ、その稲作に大きく貢献した鉄の鍬先が、武将の兜飾りとしてかたどられ、「鉄鍬形」と呼ばれるものになったのでしょうか。
 この問題に答えるためには、この鉄鍬形が登場した時代、つまり平安中後期の政治状況に注目する必要があるでしょう。当時の武将たちとは、律令制の崩壊期における軍制再編によって中央で貴族化した人々、つまり藤原家や桓武平氏・清和源氏などの流れを汲み、武芸を職能とする官位をもつ人々でした。九世紀に新設され、当初は京都の治安維持に当たった天皇直下の警察組織「検非違使」が、持続する政情不安のなかで次第にその職務を拡大していった平安中期以降、彼らの武官として存在感は著しく増大していきます。検非違使として功績を挙げた後には受領として諸国に赴き、あるいは平安後期に東国や西国でしばしば起きた反乱の鎮圧に当たることによって、彼らは天皇の支配領域(公領=国衙領)を護り、その租税徴収を請け負い、中央に収める役割(と同時に、自分自身も富と勢力を蓄積・拡大していったわけですが)も果たしていたのです。したがってこれらの武官たちには、彼らによって中央集権国家の立て直しを図ろうとする朝廷の意思が託されていたと見ることができます。そしてその中央の意思こそが、彼ら武官たちの任務の象徴としてU字形鍬先をかたどる兜飾り、すなわち鉄鍬形を案出するに至ったその直接の動機だったのではないでしょうか。
 したがって、中央政権の本来的な意図からすれば、彼らの武官としての働きは、農具のU字形鍬先が開墾と収穫の飛躍的増大をもたらしたまさにそのように、王朝国家体制下にある田地を鎮護・拡大し、そこからの租税増収に貢献するものと位置づけられていたはずです。つまり、「鍬」の鉄製U字形刃先をかたどった武将の鉄鍬形とは、辞典類に記載されているような、単なる威容や官位の高さを示すための飾り、あるいは標章ではなく、稲作に基盤を置く天皇中心の国家に奉仕する彼らの職務成就への祈念が込められた護符、国家イデオロギー的呪物、あるいは一種の依り代でもあったのではないかとmichikoは思います。
三条殿焼討(平治物語絵巻から)
 とはいえ、平安後期の政治状況は急速に悪化していきます。天皇と上皇(法皇)が対立し保元・平治の乱に発展する頃には、これらの武将たちも二手に分かれ、次々と内輪もめを繰り返しつつ、平氏と源氏がその争いのなかで中央権力に深く食い込む勢力にのし上がっていく時代が到来するのです。上にご紹介した法成寺殿跡出土の鉄鍬形は後白河法皇方の武将のものと見られていますが、これとほぼ同時代の平治の乱に関わり、その発端となった「三条殿焼討」を指揮した源義朝も、この事件から百年ほど後に制作された『平治物語絵巻』(十三世紀後半)に鍬形付きの兜姿で登場しています。描かれた彼の鍬形は法成寺殿跡のものに近く、まだU字形鍬先の形を留めていて、鎌倉末の春日大社の鍬形ほど角先がV字に開いていないことを見れば、この絵のなかの鍬形は百年前の実物に近かったかもしれません。
伴大納言逮捕に向かう検非違使たち
 ここでもう一度、前回も挙げた「伴大納言絵巻」の検非違使たちの鍬形兜の部分を拡大したものを見ておきましょう。後白河法皇が命じて描かせたというこの平安末の絵巻では、『平治物語絵巻』と比べてみても、鍬形はU字形刃先の原型をほぼそのまま留めており、絵師たちも「くはがた」の名の由来を知っていたように思えます。天皇方に付くにしても上皇方に付くにしても、武将たちはまだ朝廷国家の官位をもつ武官であり、受領に任じられ、より高い官位を得ることを目指した、その意味で稲作国家の繁栄に寄与することによって自身の繁栄・栄達を図る人々だったのです。
 
 ここで、この「鍬」が古代律令制国家において持っていた意味をもう少し詳しく見ておきましょう。古代の日本人は、公的文書を正式の漢文で記録するようになって以降、「鍬」と「鋤」を中国語本来の字義と逆転させて訓読し、あるいは「鍬」を「クハ」とも「スキ」とも読んでいたことが、研究者によって早くから指摘されてきました。中国語では日本語で「クハ」と言われる、開墾に真っ先に役立つ農耕具を表す語は「鋤」で、「鍬」はシャベル、スコップなどの狭い用途の意味しか持ちません。これに対して、日本の律令関係の古文書では「鍬」と「鋤」の鉄の刃先を指して「鍬」と総称することがしばしば行われてきました。
 鍬も鋤も、もちろんその柄と刃床(風呂と刃先からなる)の全体が農耕具としての用をなすわけですが、律令政府の役人たちにとっては実際、この刃先だけが記録に値する現物でした。というのも、当時は鉄が貴重品であったため、鍬や鋤の刃先は鉄を産出する地域から「調」あるいは「庸」(労役の代替品)として中央に納められ、その後、官人への定期的支給品(季禄)、あるいは功績のあった官人への下賜品として分配されていたからです。
 もう一つ、当時の農耕具を代表するクハを表す漢字として、日本では初期の混乱を経た後、最終的に中国語の字義に即した「鋤」ではなく「鍫」(「鍬」の異体字で、古文書ではこの字が多い)が定着したことが知られています。その経緯については、これまでにも様々に論じられてきましたが、残念ながら、いずれも完全に納得できるような説得力を欠いています。とはいえ、その結果を虚心に眺めるならば、「鍬」が定着した背景にはこの漢字そのものへの古代日本人の愛着、つまり恣意的な選択があったのではないかとmichikoは推測しています。
『和名類聚抄』農耕具の巻
   敢えて「恣意的」と言いたくなるのは、『和名類聚抄』(十世紀成立)の農耕具の巻に記載された「鋤」と「鍫」の説明に、古代中国の辞書類からの引用に際して意図的と思われる取捨選択や継ぎ接ぎが認められるからです。これは、江戸時代の『和漢三才図会』の記載と比較してみるとはっきりします。もちろん、すでに誤って広く定着してしまった漢字の和名(訓読)をやむを得ず事後的に是認する必要があった、とも考えられるのですが……一番怪しく思われるのは、和名抄では「鋤」の語義を後漢末の辞書『釋名』によって説明しているのに、「鍫」では同じ『釋名』に記載があるにもかかわらずこれを採用していないこと、また、『釋名』の「鋤」の説明の一部を「鍫」の説明に当て、あるいはその逆のことも行って、中国語本来の字義を逆転させた事実を取り繕おうとしているように見えることです。これらの作為的な記載は、ずっと後の江戸時代に書かれた『和漢三才図会』の記載と比較してみるとよく分かります。いずれにしても、古代日本人にとって、クハを表す漢字は是非とも「鍫」であってほしかったのだと思います。
『和漢三才図会』農耕具の巻
  そもそも漢字を単なる表音記号と見ていた万葉仮名の時代には、クハには久波、スキには須岐という漢字が当てられていました。それが、漢文を本格的に使い始める頃には、「鉏」(=「鋤」)「耡」「耜」「鍫」「钁」などをスキともクハとも読み、かなり混乱した様相を呈するようになり、その後平安時代中期以降になって、前述したように「鍫」をクハと訓読する用法が定着するのです。ここには、漢字の本格的受容に当たって、一つの漢字を構成する各部分の意味の総合にその漢字の字義を見いだすという古代日本人の漢字観が、「金」と「秋」から成るこの「鍫」という漢字の字体に、鉄製刃先が秋に稲の収穫をもたらすという意味を読み取り、そこに稲作を基盤とし、その収穫を嘉し言祝ぐ天皇の統べる国家にふさわしいアウラ(霊気)を感じ取るという、アニミズム的心性が作用していたのではないかと思います。
 こう推測する一つの傍証として、次のような事例を挙げることができるでしょう。日本で正式漢文の記録が行われるようになった奈良時代の平城京遷都以降、日本人は中国語には存在しない事物や概念を表すために、それまでのように万葉仮名で記すことを止め、自分たちで作成した和製漢字(国字)を用いるようになります。その際彼らが用いた漢字の作成法は、「会意」つまり各部の表す意味と意味を合わせて一つの新しい漢字を作るというものでした。たとえば、「魚」ヘンと「弱」のツクリを合わせて「鰯」という字を作る方法です。これに対して、中国の漢字は象形文字にルーツをもつとはいえ、その後の飛躍的増殖を支えたのは「形声」の原理でした。つまり、ヘンなどの部首によって意味を示唆し、残りの部分によって発音を表すという方法で作られた漢字が圧倒的に多いのです。
 これは少し考えてみれば、ごく当然のことです。言語を表す文字は常に言語そのものの成立より後になって、その言語を用いる(大抵はごく一部の)エリート階層によって作られます。一つの言語を話すということは、発音によって個々の言葉の意味の差異を示すということです。したがって、最も基礎的な漢字が成立した後の漢字の作成者たちは、まずヘンやカンムリなどの記号によって言葉を大きく意味的にジャンル分けした上で、それぞれのジャンルに属する個々の言葉については、今度は「音」を表す記号を加えてそれぞれの差異化を図るという、実に合理的でシステマティックな方法を考え出したのです。
 ところが、漢文を外国語として学んだ、そして現代とは異なり、遣唐使に随行でもしないかぎり原音に接する機会がほとんどなかった古代日本人は、たとえ漢字には「形声」文字が多いことを知っていたとしても、自分たちでそれを作ることは困難でした。しかも、漢文は訓読して学ばれ、国字は日本人の用に応じるためだけに作られた「日本語」を表す漢字ですから、中国人にも理解できる中国語らしい漢字である必要は全くありません。もちろん、当時の日本人は真名を重視し、日本語に対応する語彙がない多くの漢語を漢音(音読)で日本語に吸収しましたが、その吸収・受容過程において重視されたのは、漢字の字義、つまり意味でした。そして対応する日本語がある場合には、当然その字義に合わせて訓読したのです。現代でもなお、実用よりも読解を重視しがちな日本人の外国語学習の弊害がしばしば話題に上りますが、漢文を学んだ古代の日本人にとって、漢字は「意味」の体系として意識されていたでしょう。意味と意味とを合成する「会意」の方法によって作られた国字は、相互理解もたやすく、定着も早かったはずです。こうした事情に思いをいたすならば、正式漢文を身につけ、漢字の字義に注目するようになっていた日本人が、「鍫」という漢字に天皇制稲作国家を支える鉄製クハ先の象徴的な意味を見て取り、本来の字義を無視してまでこの字にこだわりを示したのは、無理からぬことだったのかもしれません。
 実は、「鋤」という漢字も「金」ヘンに「助」というツクリを持ち、この「助」は音を表すだけでなく、『釋名』にも「去穢助苗也」(和名抄)、「鋤所以助苗者从助」(和漢三才図会)と会意文字的な説明がなされています。とはいえ、古代の日本人にとって重要だったのはクハという農耕具の実用的な意味ではなく、天皇制国家の呪術的稲作儀礼とかかわる象徴的な意味のほうだったのでしょう。
 このような「鍬」への日本的(国家イデオロギー的かつ呪術的)偏愛と思い入れを考えるならば、律令制崩壊の危機に瀕していた平安中・後期の中央政府によってその再建を託された武将たちの威容を示す兜飾りが、なぜ「鋤」ではなく「鍬」の鉄製U字形刃先をかたどる「鉄鍬形」でなければならなかったのか、その理由が分かるように思うのですが、いかがでしょうか。

 この「決闘の図像学」、当初は予想もしなかった様々な難問にぶつかって、遅々として進まず、ということになってしまいましたが、元々はホシくんの鉢巻きに二本の角が挿し込まれたその理由について、少し過去に遡って探ってみようという軽い気持ちでした。
高山帯のハイマツ林(白馬乗鞍岳)
  ホシはこの日本で生まれ、ハイマツ林が広がる山岳地帯に住む生き物ですから、やはり生まれ落ちた土地の生き物のメンタリティと習俗を受け継いでいるなと思ったからです。クラに結婚を申し込むとすぐに、結納にする松の実の個数のことを考えたりするのは、ヨシと比べてみてもあまりに旧弊かつ計算高いところがあるのですが、いざ「決闘」という高揚した場面に臨むや、今度は鉢巻きを締めて「精神一到何事か……」(朱子)とばかりに、その前面にあの端午の節句の兜を想って針葉の二本の角まで挿したりする(ああ、日本的伝統の何たる複雑さよ!)……これはもうまさしく戦国武将モード……ホシはいまや、この土地をかつて支配した戦国時代の情念に、我知らず突き動かされている……というのは少々大げさで、昔の男の子たち、つまりヨシも子供の頃によくしていたのではないかと思われるチャンバラごっこのモードなのでしょう。だからまた、彼はすぐ正気にもどって、「決闘はともかく危険だからね」と真っ先に我が身を気遣ったりもするのです。
 
ホシが大好きなハイマツの実
とはいえ、この発想そのもののルーツを過去に向かってずっとずっと遡っていくうちに、それが実は「角」ではなく、古代の農耕具のU字形鍬先をかたどった武将たちの兜飾りの一部(U字の耳の部分)であったという事実に辿り着いてしまったのでした。つまりここにはいつの間にか、「クハガタ」と言われる物についての記憶の断絶が生じていたのです。というわけで、次回はこの鍬形が本来の意味を失って、クハガタ台に挿したクハガタ(つまり角のような物-前立物)と意識されるようになっていく過程について話を進めたいと思っています。次回でそろそろ終わりにしたいものですね。



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