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更新日:2022年10月26日

 自己紹介

 ホシくん 賛(1)

 ホシくん 賛(2)

 招かれざる同居者
 または時季外れの怪談


 アシダカちゃんの失踪

 決闘の図像学(1)

 決闘の図像学(2)

 決闘の図像学(3)
 クハガタ兜の由来


 決闘の図像学(4)
 クハガタ――記憶の断絶


 三月は雛の月(その一)
  michikoのお雛さま


 三月は雛の月(その二)
  雛祭りの苦い思い出


 もう6月……
  久しぶりの共同生活(1)


 もう7月……今日は七夕
  久しぶりの共同生活(2)


 もう9月も半ば……
 山荘で見た映画の話(1)


 もう10月も半ばすぎ……
 山荘で見た映画の話(2-1)


 10月もそろそろ終わり
 山荘で見た映画の話(2-2)



michikoの部屋


〈失踪したアシダカちゃん〉

 突然我が家に闖入してきた得体の知れない生き物と同居するようになったのは、九月も半ばを過ぎた頃でした。ネットで調べて、その闖入者が日本に棲息する最大のクモ、徘徊性のアシダカグモであることを突き止め、ひょっとしたら、michikoの就寝中に、足を滑らせて天井からボトッと落ちてくる危険があることも、そういう体験をしたというブログの記事から知りました。まるでホラー映画!と思いはしたものの、まあでも、先回すでに書いたように、けっこう臆病で、近づくとすぐササッと逃げ去る子だということもわかったし、「このうちにはあなたの居場所なんてどこにもないのよっ!」と厳しく無慈悲に追い払わなくても、ちょっとしたニッチを提供するくらいなら何でもないことだから……と考え直して、無事再会を果たした折に、同居を決意したというわけでした。
 とはいえその際、同居の唯一の条件として、「お互いに自分のテリトリーを守る」という紳士協定はきちんと結んだつもりでいました。まあ、gentlemen’s agreementですから、たとえそれを破ったとしても何も罰則はありません。したがって、「彼」が、その本来的テリトリーである床や壁、天井などの二次元平面(水平面でも垂直面でも可)上を好きな時に、好きなだけ歩き回ることはOKですが、もし不覚にも足を滑らせて水平面である天井からボトッと落ちるということになったら、三次元空間の空中を移動したことになるわけですから、これは明らかな協定違反、「紳士」ならば絶対に違反してはならない、というルールでした……となると、それではmichikoはその紳士と協定を結ぶにふさわしい「淑女」なのか、という問いが必然的に生じることになりますが……これはひとまず不問に付しておきましょう……あはは、われながらどうも自信がないみたい……
紳士の備えるべき美徳
(十七世紀イギリスの銅版画)
  そうそう、上で「彼」と書き「紳士」と書いたのは、これも同居を決めた時点ではまだ分かっていなかったことなのですが、その後だいぶ経ってから再度ネットで詳しく調べてみた結果、間違いなく「彼」だと判明したからでした。というのも、「彼」の方は「彼女」よりも体長が一センチほど小さく、頭胸部に黒っぽい斑点があるのに対して、「彼女」にはこの斑点がないのだそうです(下の、アシダカお母さんの写真をご覧ください)。うちのアシダカちゃんにははっきりと、このハート型を細身に変形したような黒っぽい斑点がありました。体長に関するデータによれば、「彼」の最大値と「彼女」の最小値は五ミリ程度重なっているので、うちの子は「彼」としては最大値に近いようです。
 これは、人類種であるヨシとmichikoについて、種の身長の男女別年代別平均値と比べてみると、ヨシの方はその平均値より大分大きいのに、michikoは平均値をひどく下回っている、というのと同様で、生き物にはすべて個体差があるということですね。まあ、のびのび育った子なのかもしれないし、あるいは父母のDNAを受け継いだせいなのかもしれません。
人類種である
ヨシとmichikoの個体差
 そういうわけで、当初、わたしたちの同居は、彼とも彼女とも分からないままに始まり、二日おきくらいにその姿を見かける日々が続きました。michikoが掃除機をかけていると、後ろからススッと何者かが視界の隅をよぎって前方へ……一瞬ドキッとして身をすくめると、その姿はすでに本棚の下に消えていた、ということもありました。
 ある日、いつものようにキッチンで遅い朝食の支度をしていると、アシダカちゃんが不意に姿を現しました。ええっ、まだ午前中なのに、あなた夜行性でしょ!と驚きあきれつつ、じっと観察していると、クロス張りの壁からガステーブル脇のタイル張り地域へと移動……と思う間もなく、予想したとおりツルッと滑って床に落下、あわててまたクロス張りの壁を駆け上がり、今度は天井へと這っていくのです。その間michikoは、そろそろ慣れてきてもいたので、慌てず騒がず静かに自分の作業を終え、カウンターの前の椅子にすわって、彼を注視しながら食べ始めたのですが、彼の方も天井の一角にとまって、しばらくこちらを見ているようでした。そして、後片付けをしている間に、いつのまにかまた姿を消していたのです。
愛用の大型爆音目覚まし
 たしかに、出没する時間帯については何も取り決めはしていなかったので、この午前中からの登場は協定違反とは言えず、もちろん彼の紳士性にキズがついたわけでもありません。michikoがネットで調べた知識を元に、勝手に夜行性と決めつけていただけの話で、この点に関しても多分個体差があるのでしょう。例えばヨシの一日は26時間くらいなのだそうで、昔から夜昼逆転することが多いし、michikoも遅寝遅起きタイプで、必要があるときだけ強烈な音で鳴り響く目覚まし時計に職業的倫理を丸投げしている、つまり運悪く起きられずに遅刻すると目覚ましのせいにするという日常ですから、他の生き物の行動パターンをあれこれあげつらう気などこれっぽっちもありません。
 まだ彼か彼女か分からなかった頃には、その大きさから見て彼女だと思い込でいた時期もありました。となると……卵を産むことも考えられるし、彼女ひとりと同居したつもりが、いつのまにかその子供たちの彼・彼女たちとも同居したことになってしまう……そんな不安も募りました。というのは、アシダカグモの彼女は大変健気で、卵を産むと、自分の身体と同じくらい大きくなる卵嚢(らんのう)をいつも抱えて移動する愛情深いお母さんになり、そのお産は一年に二度、しかも一つの卵嚢から200~400個もの卵がいちどきに孵化すると知ったからです。うーーーん、これは絶対に同居不可能な数、ありえなーーーい!!! 第一、彼らが成長するのに必要不可欠なエサが我が家に十分あるとは思われません。こちらが招いたのではなく、自分から闖入してきたのだから、エサは自力で獲保、というのがそもそもの大前提でした。
 因みに、このアシダカお母さんの画像は、豊橋総合動植物公園のツィッターで公開されていたものですが、いかにもどっしりしたお母さんタイプ、何事にも動じないという安定感ですよね。
卵嚢を抱えて移動中のアシダカお母さん
 それで、本当に「彼女」ならば、その感動的な母性愛にはこころからの敬意を表するものの、これは大変に困ったことになりそうです。ネットには、その何百もの卵が一斉に孵化した様子を実際に目にした、あるいは耳にしたブロガーの方たちの報告談もあり、ムシ研究者の撮影した写真、ユーチューブ動画すらありました。何日かすると子供たちの数は自然に激減するようですが、一時的には壁面全体がその蜘蛛の子たちでワッと埋まるような、すさまじい光景を呈するようなのです。さらに、彼女のほうが彼よりも二年ほど寿命が長く、平均して七年ほどの長寿だということでした。現在の年齢は定かではないものの、これから七年間も同居するとしたら、うーーーん、一年二回のお産に七年もつきあうことになる……さすがに先が思いやられて、二日に一度ほど見かけるその姿を眺めやりながら、ひどく悩みました。ヨシに電話で相談してみると、ヨシもやはり、それは困ったことだね、今度見かけたら、バスタオルか何かを上からぱっと被せて、ベランダに出してあげたらどう?と提案してくれました。
 ところが、この相談をこっそり聞いていたかのように、三回目に出会った頃からは床を移動することがほぼなくなり、壁面で見かけることが普通になりました。つまり、ヨシの提案を実行するための前提条件が消えてしまったのです。モニタに向かって作業中に、間仕切りや本棚の上の壁をススッと這っていく姿が視界の端をふっとかすめて、しばらくじっと見つめていると、そのうちにどこかのすき間に入り込んで見えなくなる、そういうしばしの出会いが何度か続きました。そして、こんな同居生活がごくふつうの日常と感じられるようになり、もう彼でも彼女でもいいかな、どっちにしても、どうやらもう「うちのアシダカちゃん」なんだから、と思い始めたつい最近になって、ふっとまたネットでその性差について詳しくチェックしてみる気になりました。すると、それまでも読んだ覚えのある二、三の記事に、その明らかな形状的差異がちゃんと記されていました。それが上に書いたような、「彼」だけがもつ頭胸部の黒いハート型に似た斑点だったのです。
 その「うちのアシダカちゃん」の姿が、そう、もうあれから一週間以上も経つのですが……すっとmichikoの視界から消えてしまいました。そのうちにまたきっと出てくるだろう、また会えるだろうと思っていたのですが、こんなに長い間見かけないことはこれまでなかったので、多分、突然わが家に入ってきたのと同様に、またふっと河岸をかえる気になったのではないかと思います。こちらは「意を決して」同居を始めたつもりだったのですが、もしかしたら、ここでは十分なエサが見つけられなかったのかもしれません。今となってみれば、その最後の出会いは、彼にとってお別れの儀式のつもりだったのかな、別れを惜しみにきてくれたのかな、と思ったりもします。
 それはある日の夜七時過ぎのことでした。michikoの大きな机が置いてあるリビングの窓際の壁に、アシダカちゃんが不意に姿を見せていました。どこをどう移動してきたのか……ともかく気がついたらそこに居たのです。今までと違って、どういうわけなのかまるで動かず、同じ位置を保ったままじっとしています。その幅広の机の中央に据えたモニタに向かって仕事をしていたので、かなり間近に彼の大きな姿を見ることになりました。一瞬また少し緊張しましたが、まあこれは紳士協定の範囲内です。ちゃんとサッシの窓際のクロス壁に長い足を左右に四本ずつ並べて大人しくしているのですから、こちらが気にしなければそれで済むことです。普段よりずっとすぐ傍にいて、michikoが時々席を立ったり、本を棚から引っ張り出したりしても全然動揺しないということは、彼のほうでもこの共生にすっかり慣れて、もうびくびくしていない、逃げ出す必要がないと感じているのだろうと思ったら、ちょっと嬉しくなりました。
 それからしばらくして遅い夕食の支度にとりかかり、準備完了。大きなお盆にお皿や茶碗をいろいろ並べてモニタの前に持ってくると(昔からテレビを見ながら食事する習慣がないので、一人のときはいつもモニタの前で、ニュースをチェックしたり、動画を見たりしながら食事をしているのです)、まだ彼は同じ場所にじっとしています。ふーーーん、どうしたの? 今日の活動はもう終わり? まだ宵の口でしょうに、と内心不思議に思いましたが、彼の食事とわたしの食事は食べるものが違うので、お裾分けしてあげることもなく食事を終え、今度はお茶を入れてきて、またモニタの前に座り直しました。作業再開です。
うちのアシダカちゃん photo by michiko
 そのうちふっと、そうそう、一度あなたの写真を撮っておこうかな、こうして同居することになったのも何かのご縁だし……と思いつきました。最初は携帯で写してみたのですが、あまりクリアな画像ではなかったので、これでは肖像写真にならないなと思い、引き出しからデジカメを取り出して高画質で撮ってみました。そのうちにこちらも段々度胸が据わってきて、想像してみるに、まるでアイドル写真を撮るマニアような気分で(あはは)、ぐぐっと間近に迫って接写したのですが、彼のほうは全然動じる気配もなく(ん? 元々アイドル意識が高いのかしらん)、相変わらずじっとしています。もう三時間以上も前から同じ姿勢で、その長い足のうちの二本の間隔が前より少し近づいたかな、と思う程度の僅かな動きしかありません。
 一体どうしたのだろうと思わないではなかったのですが、ときどき横目でチラチラ彼の姿を気にしながら仕事を続けているうちに、そろそろ丑三つ時、シャワーを浴びて寝る準備をする時間になりました。それでパソコンをシャットダウンし、彼の様子が何も変わらないのを確かめて椅子を立って、三十分ほどして戻ってきたところ、アシダカちゃんの姿は元の場所になく、ちょうど窓の上に設置してあるエアコンの方に這い上がっていく途中でした。michikoはこの日の彼の行動を不思議に思いながら、「またね!」と見送って、眠りについたのです。
 これが、うちのアシダカちゃんを見た最後の夜になりました。エサが見つからないといつの間にか自分から出ていく、という記事をいくつか読みましたので、やはりその可能性が一番高いのかなという気がします。とはいえ、michikoが毎日一番長い時間を過ごしている場所のすぐ近くに現れて、あれだけ長い時間身動きもせず、こちらの仕事ぶりをじっと見つめていた彼は、やはり立ち去るに当たって、お別れの気持ちを伝えようとしたのではないかと思うのです。
生態系のなかのアシダカちゃんとmichikoの共生関係

 
 えっ? 単にお腹が空きすぎて身動きできなくなっただけじゃないの、ですって?
 そういうことを言う人は多分、生き物同士のこころの交流をしたことが今まで一度もなかったんだと思いますね。
 とにかくね、アシダカちゃん、一度はうちの子になったんだから、またその気になったらいつでも戻っておいでよ。お互い、誰と暮らそうと、何を食べて生きようと、それは自由だよ。独立独歩、自主自立、相互尊重の民主主義でいきましょ。だから、あなたの食べ物は、あなたが自分で探してね。わたしが用意してあげるわけにはいかないんだから。そして少なくとも、今度闖入した先のおうちで虐げられていないことだけを、こころから祈っています。いつでも待ってるからね。
 でも……正直、なんだかさびしいな……



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