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更新日:2022年10月26日

 自己紹介

 ホシくん 賛(1)

 ホシくん 賛(2)

 招かれざる同居者
 または時季外れの怪談


 アシダカちゃんの失踪

 決闘の図像学(1)

 決闘の図像学(2)

 決闘の図像学(3)
 クハガタ兜の由来


 決闘の図像学(4)
 クハガタ――記憶の断絶


 三月は雛の月(その一)
  michikoのお雛さま


 三月は雛の月(その二)
  雛祭りの苦い思い出


 もう6月……
  久しぶりの共同生活(1)


 もう7月……今日は七夕
  久しぶりの共同生活(2)


 もう9月も半ば……
 山荘で見た映画の話(1)


 もう10月も半ばすぎ……
 山荘で見た映画の話(2-1)


 10月もそろそろ終わり
 山荘で見た映画の話(2-2)



michikoの部屋


 もう9月……山荘で見た映画のお話(1)

 
2022年9月14日の猛暑予報図
先回、「もう7月……」を七夕の日にアップしてから、すでに二ヶ月以上も経ってしまったことになります。でも、その中旬になってもまだ、michikoの住んでいる街の午後2時過ぎの気温は34・4度(あ、またあの細長い子が出てきたみたい!)……これってやっぱり異常ですよね。このところの世界的な熱暑は、もちろん日本では想像も及ばないほどの干ばつ被害を多くの地域にもたらしていますし、クーラーやエアコンなど暑さを避ける設備が全くない地域も多いので、視野を大きく広げてみると、日本の都市で毎日の暑さにぶつぶつ文句を言っていられるというのは、まあ恵まれた環境にあるのかなと思ったりもします。とはいえこの夏のmichikoは、日中はエアコンを全く付けずに首振り扇風機だけで済ましていて、地球温暖化防止と懐具合の改善のため、我が身を呈して大幅なエネルギー節減にチャレンジしています。首にタオルを巻き付けていても机の上にポタポタ落ちる汗をしばしばティッシュでぬぐいながら、いまこの記事を書いているところなのですが……あはは、こんな風に書くと、若干悲壮な感じがしませんか?
 さて、今日の話題は夏休み。もうとっくに過ぎ去ってしまいましたが、Yoshiと山荘でどんな夏休みを過ごしたのかについてご報告したいと思います。
上空から見た浅間山(BehBeh,Wikipedia)
 この夏休みのトピックは、なんと言っても毎日の映画鑑賞でした。とはいえ、特大壁掛けテレビやスタンドテレビのような現代文明の利器は持っていないし、そもそも特別の設備を整えないとテレビ受信はできない浅間山の麓に広がる高原のごく僅かな一画なので、夕食後、ごくふつーのパソコンのモニタで一本ずつAmazonプライムビデオを見るだけ、とくにこれと言ったアピールポイントは見いだせない、ごくありふれた日常風景ではあります。
 Yoshiの映画好きについては前にも書いたことがありますが(「決闘の図像学(2)」で、ホシ君がハチマキに差し込んだ杉の針葉について解説しているところです)、映画制作の基本的な手順や技法などについてもけっこう詳しいので、この映画鑑賞の後にはいつもしばらくおしゃべりしてから寝るのですが、お互いに見たばかりの作品について感想を言い合った後には、そういう映画特有の技法や編集法などについて解説してくれることもあります。
 
『Dune/砂の惑星』のタイトルロゴ(Wikipedia)
今回の夏休みはmichikoのほうの都合で、いつものように2週間たっぷりは休めなかったのですが、出入りの日を除いた10日間のうち、ほぼ毎日1本、計9本の映画を見ました。これまでは時々、少し短めのものを1日2本見ることもあったのですが、今回は充実した作品が多かったこともあり、どれもじっくり見たなという感じでした。
 まず、見た映画のタイトルを下に挙げておきます。メモをとっていたわけではないので、見た順序どおりに並べることはできないのですが、今回は行き当たりばったり目に付いたものを見る方式ではなく、一つ見た後で、それに類したテーマの作品を選んで見ることが多かったので、ジャンル分けがしやすいのです。
 
 SF関係:『パッセンジャー』(2016)、『DUNE / デューン 砂の惑星』(2021)、
      『ブレードランナー 2049』(2017)、『エンダーのゲーム』(2013)
 ナチス関係:『アイヒマンを追え!』(2016)、『コリーニ事件』(2019)、
      『最後のフェルメール』(2021)
 LGBT関係:『ムーンライト』(2016)
 B級映画:『ウィリーズ・ワンダーランド』(2021)

 休暇中に一緒に見る映画は、二人でモニタの前に並んで座ってから、Yoshiが以前自分で見て面白かったなと思うものを提案することがほとんどです。michikoは元々映画がすごく好きというわけではないので、たまに暇で何もする気がおきないときなどにAmazonプライムビデオの中から適当に探して見るという程度です。もちろん、一般に話題をとったタイトルや問題作などを自分で探すこともたまにはありますが、たいていはYoshiがプライムビデオの「マイアイテム」にピックアップしておいたものの中から、何か面白そうなものがないかなと探します。
michikoが中学生の頃の『スクリーン』
 michikoが元々好きなタイプの映画は文芸物や往年の名作と言われるモノクロ映画、そしてけっこう古いハリウッド映画などが多く、中学生の頃から当時よく知られていた映画雑誌『スクリーン』を毎月駅前の書店で立ち読みしていたようなミーハーでしたし、大学生になってからも長い間ミーハー女子大生をやっていましたから、なんと言ってもラブ・ストーリーが中心でした。その後、はっと目覚めて完全に違う方面へと転身し、長い長い紆余曲折を経て、結局またラブ・ストーリーへと逆戻りしたのですが、それは若い頃とは全く異なる観点から、ヨーロッパ近世・近代市民社会に生じた〈恋愛→結婚〉という結婚形式の発生と展開、その社会史的背景などについて研究するという形での逆戻りでした。
 そんなわけで、Yoshiからはいつも「みっちゃんは〈あいっ〉が好きなんでしょ」とからかわれてきたのです。
恋愛→結婚を示唆する17世紀オランダの女性向け修養書
 とはいえ、そういうYoshiも昔から、ペーパーバックスでポーやディケンズや海洋冒険小説などを読み漁るばかりでなく、オースティンの小説まで読んでいたりして、「彼女の小説って、『あの人、わたしのこと本当に好きなのかしら?』みたいな心理ドラマっぽいところがけっこうスリリングで面白いよね」などと言ったりもするのです。それでmichikoが、BBCのテレビドラマや映画など、これが面白かったよと報告すると、次の電話では自分でも見ていて、あそこが良かった、あれはミスキャストだよね、などと話が弾んで何時間も話し込んでしまう、ということもしばしばありました。
 とはいえ、今回見た映画は9本中4本がSFでした。SFというジャンルは、正直に言って、michikoが自分から進んで見ることはまずなかったものの一つです。推理物や探偵物、あるいはいわゆるサスペンスはけっこう面白いなと思うのですが、SFはなんだかゲームっぽく現実離れしていて波長が合わないのか、ともかく食指が動きません。でも、元々熱烈な映画ファンというわけではなく、知らないことも多いので、初日にYoshiがSFの『パッセンジャー』を提案したとき、michikoはすぐに「いいよ」とOKしました。まあこうして一緒にいないと絶対に見ないような映画を見るというのは、確かに一つの新しい体験、「冒険」だなと思う自分がどこかにいるからでしょう。自分一人で充足しているというのは、ある意味幸せなことかもしれませんが、やはり自分の尺度に合わせて自ずと興味・関心の幅が限られてしまうものなので、日々拡大しつづけている現代的体験世界を知らないうちに素通りしてしまうことにもなりかねない……と、ここまできちんと考えてOKしたわけでは全くないのですが(あはは)、ともかく一緒に見終えて、ふーーーーーん、こういう映画もけっこう面白いなと正直思いました。これもある種の恋愛心理ドラマだった、ということもあるのかもしれません。主演女優も知的でなかなか魅力的でした。トム・クルーズが好きなYoshiは主演の男優が「トム・クルーズだったらもっと良かったよね」と言いますが、まあこの人でも悪くはなかったと思います。
 ただ、この作品はSFと言ってもそれほど本格的なものではないということが、次の二作品を見てはっきり分かりました。つまり『パッセンジャー』はSF的要素を使ってはいるのですが、それはあくまで背景としてであり、焦点はむしろ密室的な恋愛心理劇のほうにあったからです。
 これに対して、『デューン 砂の惑星』とその二、三日後に見た『ブレードランナー 2049』の二作品は、まさにSF映画でなければ実現しえないような抒情的映像美が実に実に見事でした。基本的には、轟音をとどろかせて飛び交う宇宙戦艦同士の戦いやレプリカント(人造人間)と人間の派手な戦闘場面がかなり多い作品なのに、あるいはだからこそ、その中にふっと織り込まれる極限の静けさの力は圧倒的で、現実の世界を超越したところでしか、つまり人間がそのイマジネーションによってしか表現しえないような不可思議な情感に満ちていました。こういうのは確かに、SF映画でなければ実現できない世界なんだろうなと実感したのです。CGを駆使した映像フィクション、これもまた、現代ならではの素晴らしい芸術ですね。

『ブレードランナー 2049』の監督(左端)と
主要キャスト(Wikipedia)

 とりわけ、二つ目の『ブレードランナー 2049』の最終場面、人間を救助して傷ついたレプリカントのKが、自分が半分は人間かもしれないという淡い期待を奪われ、静かに降り積もる雪のなか、かすかな微笑を浮かべて死んでいく場面は本当に感動的で圧巻でした。人間がレプリカントを造り使用することによって益々非情に、非人間的になっていくのに反して、レプリカントである主人公が「人間」ではないからこそ持ちえた「人間性」への思い入れ……そこに、まさしく「人間的」としか表現しえない悲哀をわたしたちは感じとるのです。そして、この実に皮肉なパラドクスを説得力あるかたちで描き出してくれるのも、やはり俳優や監督である人間にほかなりません。
 二人でしんみりこの最後の場面を見終わってから、この作品にどこか『デューン』に通じる味わいがあるのが気になって調べてみたところ、二つとも同じドゥニ・ヴィルヌーヴというカナダ人監督の作品だと分かって、また一緒に感嘆の声を上げました。この二つは全く異なる非現実世界を描いているにもかかわらず、その底に響くトーンと鋭敏で抒情的な映像表現には不思議に似たところが感じられるのです。Yoshiは前に見たときには別々にかなりの時間をおいて見たようで、その時は両者の共通性に気がつかなかったそうです。
 『エンダーのゲーム』のほうは子供に焦点を当てた作品でもあり、夏休みの娯楽として一定は楽しみましたが、それ以上ではありませんでした。1日が26時間くらいのサイクルだというYoshiは、時々睡眠調整が必要になると、「頭を白紙にする」と言って延々とゲームに時間を費やしたりするのですが、周りを見てもゲームに熱中するのはほとんどが男の子で、女の子は少ないようです。この映画でも、子供のゲーマーたちを集めたエンダー君たちのチームに参加していた女の子はたったの一人だけでした。
 というわけで、今日はここまでにしておきましょう。夏休みにYoshiと見た映画については、ナチス関係の3本と、それからB級映画についても、是非是非お話ししたいことがありますので、この続きは次回、なるべく近いうちにと思っています。それではまた!!!



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