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更新日:2022年10月26日

 自己紹介

 ホシくん 賛(1)

 ホシくん 賛(2)

 招かれざる同居者
 または時季外れの怪談


 アシダカちゃんの失踪

 決闘の図像学(1)

 決闘の図像学(2)

 決闘の図像学(3)
 クハガタ兜の由来


 決闘の図像学(4)
 クハガタ――記憶の断絶


 三月は雛の月(その一)
  michikoのお雛さま


 三月は雛の月(その二)
  雛祭りの苦い思い出


 もう6月……
  久しぶりの共同生活(1)


 もう7月……今日は七夕
  久しぶりの共同生活(2)


 もう9月も半ば……
 山荘で見た映画の話(1)


 もう10月も半ばすぎ……
 山荘で見た映画の話(2-1)


 10月もそろそろ終わり
 山荘で見た映画の話(2-2)



michikoの部屋


決闘の図像学(4)

 「決闘の図像学」の最後の記事(3)をアップしたのは一体いつのことだったのか、もう分からなくなるほどの時間が経ちましたが、この間、忙しい合間を縫って、いろいろ資料を探したり読んだり、そして考え込むこともしきりでした。今日はその一区切り、四回目です。当初の予定を越えて、もう少し続くことになると思います。
 先回詳しくご説明したように、平安時代中・後期に登場したと思われる兜飾りの「クハガタ」は、古代農耕具の鍬の鉄製U字形刃先をかたどったものでした。ところが、このクハガタという名の由来は、江戸時代中期に主君徳川綱豊(後の六代将軍徳川家宣)の命によって新井白石(1657-1725)が記した故実書『本朝軍器考』(1709年成立、1740年刊)の時代には、すでに全く忘れ去られていました。この著作は、それまでに知られていた確実な古文献や記録、絵巻などから、日本の軍器(兵器)とその沿革を網羅的に考証した画期的なもので、実証を重んじる白石の面目躍如たる観があります。それにもかかわらず、彼はこの名の由来について、何も確たる根拠を示せなかったのです。
 そこで今回は、ある時代に、その時代に規定され要請された意味を担い、それを示唆する呼称を伴って誕生したにもかかわらず、後になって完全にその意味が忘れ去られ、そのモノと呼称はそのまま生き残って新たな意味を付加されていくという興味深い文化現象についても、併せて考えてみたいと思います。
 つまり、ここでいう「図像学」とは、IconographyではなくIconologyのことで、単に図像(かたち)の変化や相互の影響関係を考察対象とするのではなく、その図像を生み出した背景にある社会や文化と関連づけて考えようとする研究方法を言います。そもそもこのエッセイは、決闘に臨んで奮い立ったホシ君が、鉢巻きだけでは物足りず、なぜかそこに二本の杉の針葉を差し込んだ、その「いでたち」の意味、その発想の文化的背景を問うことから始まったのでした。
オモダカの葉
 さて、白石はまず、「鍬形トイフ物ハ、澤潟(オモダカ)ノ葉ノイマダヒラカヌ形ヲ、カタドレル也、オモダカトイフ物ハ、勝軍草トモイフナレバ、鎧ニモ澤潟威ナドイフアリトイヘル説アリ、」という当時有力であったらしい俗説をとりあげ、「マコトニ其形ハヨク似タリケレド、カゝル名モアリケリトイフ事、イマダ見ル所ナケレバイブカシ、」と退けます。つまり、形は確かに似ているけれども、「鍬形」を「オモダカ形」と呼ぶことがあったとはどの史料にも見えない、だから受け入れられないというわけです。
 白石が鍬形の由来として一つだけ採り上げているこの俗説は、オモダカという植物の葉が開く前の形が鍬形と似ているだけでなく、それが「勝軍草(かちいくさぐさ)」という別名を持っていることに注目したからでしょう。とはいえ、ここではロジックが転倒しています。この俗説は、オモダカには武将にとっての最大の祈念、すなわち「勝利」を示唆する別名がある、だからその葉の形をかたどって兜の立物(=鍬形)としたのだと主張します。白石がここで問題にしているのは「鍬形」という呼称そのものですから、それではなぜ、オモダカを象った立物が「澤瀉形」ではなく「鍬形」と呼ばれるのかという問いに対しては、この俗説は何も答えてはくれません。
 続いて彼は、「コレラノ外、カレコレトイフ説アレド、皆信ガタシ」として、いくつか存在していたらしい俗説をまとめて、論ずるに足りずと切り捨てます。このあたりの、確たる証拠を求めるきっぱりとした実証精神は、俗説を再生産することを厭わなかった同時代の他の識者や文筆家と比べてみると、なかなかのものだと思います。
クワイの葉
  因みに、白石が無言で排除したこれらの俗説の中には、今日も百科事典などに、「定説がない」とした上で紹介されている諸説の一つ、「クワイ(くわゐ)説」もあったことでしょう。クワイもまたオモダカ科に属する水生植物なので葉の形はよく似ており、同じく「勝軍草」と呼ばれていたようです。しかもこちらの説には、クワイ形がなまってクワ形になったというまことしやかな呼び名の説明まで付いていました(白石より少し後の、やはり江戸中期の故実家、伊勢貞丈は、断固たる調子でこの説を主張していますが、その論拠は示されていません。うーーーん、貞丈さん、あなた本当に大丈夫?)。とはいえ、クワイは慈姑と書き、「鍬」の字は用いませんから、やはりこじつけに過ぎません。
 さて、白石はこの呼称の淵源をめぐる記述の最後に、当時も実際に行われていたというアイヌのある習俗に用いられる宝物について、大変面白いコメントを残しています。
 「蝦夷人ノ寶トスル鍬サキト云フアリ、國人病スル時、其枕上に立、災ヲ攘フ物也と云フ、其形我國ノ鍬形ノ制ナル物也、サラバ我國ノ昔ヨリ此物ヲ兜ノ前ニ立シ事モ、必ズ其故アルベケレド、今ハ其義ヲ失ヒシニコソ、」
 
アイヌの鍬サキ(アイヌ鍬形)
白石はここで、アイヌ民族が宝とし、病や災いを祓うために用いるという一種の神器あるいは呪物である「鍬サキ」(これについては、次回あるいは次々回に詳しくお話しするつもりです)について触れ、それは日本の「鍬形」と同じような造りなのだから、鍬形を兜の前に付けることにも元々は同じように何らかの理由(意味)があったに違いない、しかし今ではもうそれが分からなくなってしまったと述べています。つまり、彼は極めて勘よく、この「鍬形」のルーツに単純な勝利への祈願ではなく、アイヌの「鍬サキ」(これはもちろんアイヌ語ではなく、蝦夷人と交渉をもった日本人の側の呼び名です)と同様の、ある種呪術的な意味あるいは効能を推測しているのです。
 したがってここで彼が、立物の「鍬形」もアイヌの「鍬サキ」も共に農具の「鍬」を指示しており、とりわけ「鍬サキ」という呼称は即物的に鍬の先に取り付ける金属部分を指すわけですから、そしてまた、江戸時代においても農民はこの鉄の刃先を付けた鍬や鋤を日常的に使用していたわけですから、それではなぜこの鍬サキとそっくりの鍬形が武将の兜飾りとなったのだろうかと単純素朴に問うてみたならば、彼はこの名の由来を正しく遡ることができたかもしれません。それともやはり、たとえ形が鍬の刃先に酷似していることを認めたとしても、武将の兜飾りである「鍬形」のそもそもの出自が卑近な農耕具の鍬(の刃先)であるなどとは、到底認められなかったのでしょうか。
 人間の推理力、類推力というものは、その人間の生きる時空間と緊密に関わり、それによって否応なしに規定されるところがあります。白石が、自身は信じるに足らぬと断ずる「澤瀉説」をわざわざ採り上げて、その不当さ、説得力のなさを力説したのは、武将の兜飾りであるならば当然勝ち戦を祈念するものであっただろうという当時の社会一般の、あるいは少なくとも武具を身につける階級一般の分かりやすい先入見あるいは思い込みに警告を発し、それを正したかったからでしょう。その一方で彼自身も、同時代の先入見や、源氏の新田義貞の傍流に連なるという自己の出自の誇りに全くとらわれずにいることは、やはり不可能でした。
 さて、ここで注目に値するのは、白石がこのような同時代の人々の短絡的で非論理的な考え方を退けるとともに、アイヌの鍬サキとの形の酷似から、鍬形に当初は託されていたかもしれないその呪物的、形代的な働き、神霊信仰的な意味連関を推測していることです。そして、その淵源を辿る道筋が彼の時代にはすでに途絶えてしまったことをひどく残念に感じているのです。これは、当時の人々がもはや誰も考えなかった、古代日本人のアニミズム的心性へのある種の共感だったかもしれません。
 実は、白石が『本朝軍器考』冒頭に上げる「撰用書目」(参照古文献リスト)のなかには、日本書紀や釈日本紀はもちろん、令義解、延喜式など律令の注釈書や施行細則が含まれており、そこにはすでにご紹介したように、官人への季禄あるいは下賜品として「鍬(鍫)」(の刃先)が支給されていたこと、そして鉄(及び鉄製品)が「調」(地方の特産品)として中央政府に納められていたことも繰り返し記されていました。したがって、白石が古代の「鍬」の貴重な価値に目を留める可能性は、皆無だったわけではありません。
 とはいえ彼は、発掘調査で出土した古代の鍬先の現物を目にする機会などもちろんなく、文化人類学的観点及び社会経済史的観点から古代史料の背景、つまり鍬の刃先のもたらした目覚ましい生産性の向上とその影響関係を読み解くことなど思いも付かない時代に生きた、ひたすら史料の比較考証を重んじる碩学でした。したがって、律令制が崩壊した後の王朝国家において急速にその存在意義を増した軍事貴族の武将たちに、稲魂を祀る天皇から託された任務、「鍬」を象る形代的呪物を身に付けて国家に奉仕するというこの時代に即した任務を推し量ることは、やはり不可能だったのです。
元禄期の農作業に使われた犂と鍬
ところで、武家の世になってすでに久しく、京都で天皇の行う伝統的な宮中祭祀については何も知る機会のなかった江戸時代の武士たちですが、鍬形という呼称から単純に「古代の」鍬(の刃先)を連想することまではもちろんできました。事実、白石もそう考えていた形跡があります。というのは、後年、『本朝軍器考』に図説(『集古図説』)を付してこの著作を公刊した弟子の朝倉景衡が、白石の注目したアイヌの鍬サキについて、「上古のくわの形なる歟、鍬形は鍬ざきの形なるべし」と述べており、この記述は白石自身の考えを踏襲したものと推測できるからです(『愚得随筆』巻三)。しかし、それはあくまで「上古(ここでは「大昔」の意味)のくわ」で、同時代の農民たちが使っていたそのありのままの鍬ではなかったと彼らは考えたのでした。
 ここで、白石や朝倉が身近に知っていたはずの江戸時代の「犂」(からすき、唐犂、唐鋤とも)や鍬が、彼の想像する「上古」と同様に鉄の刃先を付けて使用されていたことを、元禄期の浮世絵刊本『大和耕作絵抄』で確認しておきましょう。犂は牛に引かせて土を掘り起こす農耕具で、古代においては一部の富裕層のみが使用できたものでしたが、中世以降次第に下層にも行き渡るようになり、元禄頃には使いやすく改良された犂が広く普及していました。
 
元禄期の馬鍬
馬に引かせる馬鍬(馬把)は横木の下に多くの鉄の歯を取り付けた農具で、犂で掘り起こした土をならすために使われました。牛馬を使役する農耕が一般化するのも日本ではかなり遅く、中世以降のこととされています。白石や朝倉の目にありふれたものと見えた農耕具や耕作風景は、「上古」においてはごく限られた富裕層にのみ享受可能な貴重品だったのです。
 因みに、この『大和耕作絵抄』の冒頭「一月元旦」の絵の上部には、耕作(農業)は天照太神が人間に鍬と鎌を与えて始められたもので、そのアマテラスを祀る伊勢神宮では「鋤鍬犂は社祠第一の宝物にて御内殿におさまれり」と説明されています。記紀神話のアマテラスは稲作を下界に伝えた大神ですが、そこでは農耕具については何も語られていないので、これは後世に生じた俗説でしょう。しかし、アマテラスを伊勢に招来する巫女的な役割を果たしたのは豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと、『古事記』では豊鉏入比売命)という皇女ですから、この名に見える「鍬」や「鉏」は稲作のための農耕具を示唆していたと考えられます。
天岩戸(?)の前に餅を捧げる農民と鍬と鎌
 さて、白石は、ここで最も重要な問題、そもそも「なぜ」武将の威容を際立たせる兜飾りの鍬形が「上古のくわ」を象ったのかというその根本の問いを提起し、アイヌ鍬サキからの類推によって、そこに込められた呪術的・神霊的な意味をも予感していました。それはもはや真相を突き止めえない遠い過去の出来事だと彼は考えましたが、そう考える白石のこころには恐らく、この「上古のくわ」が彼の時代のありふれた鍬(の刃先)とは異なるものに違いないという思い込みがあったでしょう。同時代の農民が誰しも手にする鍬を武将の威容を際立たせる「鍬形」の鍬と同列に並べることは、それを身に付ける武将の名誉を冒瀆するものだとすら感じていたかもしれません。
 しかし、古代において、白石の時代とは異なる鍬についての呪物的観念が存在したとすれば、その淵源は古代鍬の刃先というモノそれ自体にあったのではなく、その刃先の果たした社会的役割と意義、具体的には、それが稲作を基盤とする古代律令制国家の建設・発展に大きく寄与したことにより、その瞠目すべき働きが統治者たちのアニミズム的心性に強く訴え、そこに宿る神的な霊力を感得させたからだったでしょう。文化人類学的な用語を使うならば、古代の鍬先はその極立った有用性と稀少価値性を併せ持つことによって、それを所有する権力者あるいは権力中枢(国家)の権威を高める「威信財」となっていたのです。白石の眼に隠されていたのは、彼の時代には既にありふれたモノと化していたこの農耕具が、古代社会において示した革新的な意義と稀少性でした。
 そして、律令制が崩壊し、鍬の刃先がもはや「調」や「庸」として中央政府に集約されない時代が到来したとき、それがかつての律令制国家で果たした役割は、その神的霊力の依り代を身に付けた武将たちに託されることになりました。官位をもつ武官であった彼らは、各地で頻発するようになった騒擾・騒乱を鎮める任務を負っただけでなく、その多くが自ら国司(受領)となって国衙領の安寧を保ち、中央政府に納入される租税の徴収を行って国庫を満たすべき人々でした。鍬形に象徴される稲作による国家の繁栄は、武将たち自身にとっても、更なる栄達につながる重要な関心事だったのです。
『本朝軍器考集古図説』のクハカタ及び鍬形臺(左上図に注目)
 ところがこの武将たちの社会的位置と役割は、武家が政治の表舞台に登場し政治を主導する時代に入ると、大きく変化します。鍬形の由来が急速に忘れ去られてしまったそもそもの原因はまさしく、武将が京都の中央政府によって任じられる武官ではなくなったこと、つまり「武家の世になった」ことにあったとmichikoは考えています。源頼朝が東国に勢力を伸ばし、京都及び西国に勢力を張って栄華を極めた平氏を遂には追い込むようになると、武人たちは自身の栄達のために公家を模倣し、ひたすら都で官位を求めるというそれまでの発想から遠のいていきました。頼朝及びその後継者と直接主従契約を結び、その家人として武勲を上げることで所領を安堵され、一族の繁栄を図るという別の道、武家にふさわしい道が、今や眼前に大きく拓かれるようになったからです。
 つまり、このような中世的封建制が確立されることによって、「鍬形」は平安後期の王朝国家的出自から解き放たれ、そのルーツに信じられた神的呪術的霊力も記憶から失われて、もっぱら武将としての威容を示す兜飾りと見なされるようになったのです。そしてこのことがまた、クハガタとは上に向かって開いた二本の角状の部分のみを指し、その角を差し込む部分はクハガタ台と称するという、現在も続く呼び名を定着させることになりました(鉢巻きに二本の杉の針葉を差し込んだホシ君の発想も、そのルーツはこの辺りにあったでしょう)。
戦国武将の南蛮風兜の鍬形
室町時代(15世紀)の三鍬形
 こうなってしまえば、「クハガタ」から直接、戦後もまだ使われていたという鍬のU字形の刃先を想い起こすことは、到底不可能でした。それ以降、ただの二本の角となったクワガタは、その形状そのものも武将の恣意にまかせて大きく変化していきます。南北朝時代を舞台とする十四世紀後半成立の『太平記』には「三鍬形打ったる甲」(ありえなーーーい!)が登場し、それは二本の角のまん中に剣の形を立てた新様式でした(東京国立博物館)。そして戦国時代に入ると、兜の立物はますます奇想天外な発展を遂げ、宣教師が渡来する時代には形にも色にも自由な発想を凝らした「南蛮風」の立物まで登場します。
 明智光秀の重臣のものと伝えられる兜には、兎の両耳の間に月を配した立物が付いていますが、これも三鍬形の変奏といえるでしょう。それにしても、戦国の世の武具である兜の立物になぜ「月に兎」が登場するのか……悠長にお月見をしている場合じゃないでしょうに……「三鍬形」ですでに驚き呆れているmichikoにはもはや理解できません。もしかしたらこの人、卯(ウサギ)年生まれ? こんな前立を付けた男が敵将として戦場に現れたら……唖然呆然の後に爆笑……その隙に裏をかくという狙いなのかしらん……いずれにしても、このような「何でもあり」の錯綜する状況のなかで、「鍬形」のそもそものルーツに関しても、オモダカ説やクワイ説などさまざまな俗説や憶説がまことしやかに語られることになったのでしょう。

 (最後の二点の画像の出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム)



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