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更新日:2022年10月26日

 自己紹介

 ホシくん 賛(1)

 ホシくん 賛(2)

 招かれざる同居者
 または時季外れの怪談


 アシダカちゃんの失踪

 決闘の図像学(1)

 決闘の図像学(2)

 決闘の図像学(3)
 クハガタ兜の由来


 決闘の図像学(4)
 クハガタ――記憶の断絶


 三月は雛の月(その一)
  michikoのお雛さま


 三月は雛の月(その二)
  雛祭りの苦い思い出


 もう6月……
  久しぶりの共同生活(1)


 もう7月……今日は七夕
  久しぶりの共同生活(2)


 もう9月も半ば……
 山荘で見た映画の話(1)


 もう10月も半ばすぎ……
 山荘で見た映画の話(2-1)


 10月もそろそろ終わり
 山荘で見た映画の話(2-2)



michikoの部屋


〈三月は雛の月〉(その二)

 そう、雛の月の三月も今日でもうおしまい。この冬はとても寒かったというのに、東京の桜はもう満開と聞いてから何日か経ちます……michikoの住んでいる地域には、すでに満開の桜の老木の並木もあり、八分咲きくらいの若木の並木もあり、日あたりによるものなのか、一様ではありません。
 数日前に地下鉄に乗ったところ、途中の駅で乗り込んできた四人連れの女性たちが優先席とその向かいの座席をどっかり占領し、どうやらお花見モードでかしましいこと! 皆さんマスクを付けているせいなのか、それとも地声なのか、コロナ禍などモノともしない大声のおしゃべりに盛り上がっていました。まあ、よくある日本の地下鉄車内風景ではありますが……
  とはいえ、今日はまだぎりぎり三月ですから、いつもはほとんどと言っていいほど守れない「お約束」どおり、子供のころの雛祭りのことを少しお話ししておきたいと思います。これはそのまま、母の思い出でもあります。
2022桜開花予報
  先の記事にも書いたように、michikoは毎年、三月三日の雛祭りを祝ってもらっていました。戦後の風景がまだ残るなかで、当時としては恵まれていた子供だったと言えるのかもしれません。それがいつ頃からのことだったのか、はっきりは憶えていないのですが、多分小学校に上がる二、三年前からではなかったかと思います。というのも、小学一年生のときの雛段が三段になったという記憶があるからです。
 michikoは三人姉妹の長女でしたが、父が結核を患い、その後も病弱だったために、中学生の頃までは貧しくて先の見通せない家庭の子供でした。母はよく、高校を終えて(父の体調がかなり悪くなって、これが「中学を終えて」になったことも一度か二度あります)早く勤めてほしい、そうすればお母さんはやっと安心できるんだけれどと言っていました。母が和裁の内職をしてやっとのことで家計を支えていた時期もあり、父の体がいつまでもつか、ひどく不安だったのだと思います。この不安はそのまま娘の不安にもなって、父が寝ているとき、息をしているかどうかじっと聞き耳を立てていたようなこともこともしばしばありました。
 
昭和30年ごろの縄跳び風景
ご近所の子供たちと一緒に通うはずだった幼稚園への入学は、経済的な理由から取りやめになりましたが、周りには最初から幼稚園になど通わせられない家庭もいくつかあり、遊び友だちがいないというようなことは全くありませんでした。後になって〈団塊の世代〉と言われた戦後のベビーブーム世代ですから、隣近所、どこのうちにも同じ年頃の子供たちがいて、道路で縄跳びや石けりをしたり、長屋や小さい貧しい家々の間の、とても道とはいえないような細い細い路地裏をバタバタと駆け抜けて追いかけっこをしたり(これはときどき、不意に窓から顔を出したおじいさんに「うるさい!」と怒鳴られるリスクもありました)、空き地にゴロンと置きっぱなしになっているコンクリートの土管をいくつも潜り抜ける競争をしたり、その中でじゃんけん遊びをしたり、ともかくあちこち走り回ってよく遊びました。
美人三人姉妹、といってもこれは
チェーホフの同名作品の表紙です
 小学校に上がると、遊びの行動半径はさらに莫大に広がりました。一年生から三年生まで通った小学校は学区が大きく、クラスメートたちの居住地域が広範囲に及んでいたからです。学区の片側の端に近いところにあったmichikoの家から、逆の端のほうにある友だちの家まで歩いて遊びに行くとなると、子供の足で十分、十五分の道のりはごくごく普通のことでした。小学校の北側は多摩川の土手と広い河原に接していて、遊ぶ場所、駆け回る場所は十分すぎるほどありました。時には友だちの家に上がり込んで遊ぶこともありましたが、運動は苦手なほうだったのに外で遊ぶのは大好きで、友だちをウチに呼んで遊ぶことはまずありませんでした。なんとなくふさいだ雰囲気のあるウチは、雨の日に姉妹で遊ぶだけの場所と思い込んでいたのかもしれません。
 ここまで読んできた方から、それで、雛祭りの話はどうなったの?というちょっとイラついた声が聞こえそうな気がしてきましたが……そう、これはもちろん、雛祭りの思い出話の長い長い前置きなのです。というのも、毎年、雛祭りが近づくころになると、michikoのこころには決まって、小学一年生のときの「とくべつの」雛祭りのことが思い浮かぶからです。
michikoの路地裏は
この半分くらいの狭さでした
 幸か不幸か、女の子ばかり三人の子供をもつことになった母は、そして男の子がいないことを特に気に病んでいる風もなかった母は、〈女の子〉というものにかなり思い入れのある人でした。そして、まあその世代の人はほとんどそうだったのかもしれませんが、女の子は女の子らしく育てたい、あるいは育てるべきだ、と考えていました。それと同時に、女の子には女の子らしいことをしてやりたいとも思っていた、これも確かです。そんな思い込みも、母がぜひとも雛人形を揃えてやりたいと頑張った、その気持ちの大きな支えだったのでしょう。あるいは、母の性格からくる一種のこだわりだったのかもしれません。というのも、長屋のお隣の家にも同じ年頃の二人姉妹がいたのですが、さまざまな面白い遊び道具や人形、お菓子をいつも羨ましいほどたくさん与えられていたにもかかわらず、そこに雛人形が飾られたことは一度もなかったからです。
 その小学一年生のときの雛人形が三段だったというのも、もしかしたらそんなに正確な記憶ではなく、単なる思い込みなのかもしれません。michikoにはまだ学校に上がっていない年子の妹と、五つ下の幼児の妹がいて、母は内職に子育てにと忙しい毎日を送っていたはずです。父は病気になった時に勤めていた会社に一度は復帰したものの、再発後には自分からそこを辞して、その一年後にようやく母の縁故で就職した会社に通い始めていました。とはいえ、往復四時間の遠距離通勤で疲れ切って帰宅、和服に着替えてすぐに寝転がるというのが父の毎日でしたから、日曜日も一日中横になって体力の温存を心掛け、笑顔を見せることはほとんどありませんでした。生後三か月くらいの赤ん坊のmichikoを嬉しそうに高く抱き上げて満面の笑みを浮かべていた父は、写真のなかにしかいなかったのです。
 幼稚園に通えなかったことから考えてみても、雛人形というのは我が家にとって相当に高嶺の花だったと思うのですが、母は毎年一段ずつ揃えていこうと計画して、それを実行に移したのでした。この一年生のときの雛祭りのことが、とくに鮮明に記憶に残っているのは、それが「友だちを呼んできていいよ」と言われた、最初で最後の雛祭りだったからではないかと思います。それ以前もそれ以降も、雛祭りは母がこの日のために作ってくれるちらし寿司を家族一緒に食べる、それだけの日でした。むしろ、雛祭りの何日か前の雛人形を飾る日のほうがずっと強い印象を残していて、そのはりつめた緊張感は今もよく覚えています。
 その日の母は、たった一つしかない六畳間の片づけと掃除から始めるのが常でした。前日までに父が組み立ててくれていた雛段を窓側の壁に寄せて据え、それから二本の和ダンスの上にのせてあった雛人形や小道具の箱を全部下して、いよいよ細かく面倒な飾り付け作業に入ります。michikoはと言えば、神経が立って怒りっぽくなっている母を刺激しないようそっと遠巻きにしながら、人形たちを木箱から取り出し、その顔を被っている薄紙を払って段の上に並べ、それぞれに固有の付属品を添えたり、持たせたり、置いたり、そして時には「あれ、どうだったっけ?」とつぶやいたりもする母の手元を、じっと目を凝らして見つめていました。この雛人形を飾る日のほうが、なんだか独特に〈儀式〉めいたものを感じさせたのです。
江戸時代の七夕風景(歌川広重)
 そういうわけで、ウチの雛祭りの第一回目は内裏雛の前に桃の花とひなあられだけの一段飾りで始まったはずですが、その後、ほぼ毎年のように一段ずつ増えていき(増えない年も一回二回はあったと思います)、最後に七段飾りで完成したのは、小学校を卒業するころだったでしょう。とはいえ、その大分後になっても、高校生になっても、大学生になっても、michikoはこの雛人形を飾る日の一種の緊張感、母のしかつめらしい顔つきと人形たちを扱うある種「作法」めいた独特の手つきを眺めるのが好きでした。
 母には、歳時記的な行事をそのつど欠かさず祝うことを一家の主婦の、あるいは自分自身の義務と考えているようなところがありました。それはそういうものだ、それはそうするものだ、という固定観念が強い人でしたから、それをきちんと「そうする」ことに生きがいとプライドを感じていたのではないかと思います。雛祭り、お彼岸のおはぎ、春には多摩川の土手で摘んだヨモギの草餅、入学や卒業のお赤飯、七夕……
 そう、母は毎年この七夕の笹飾り用に、前もって取りおいたきれいな包装紙を和ダンスの引き出しから出してきて、織姫と彦星(の着物だけをかたどった紙細工)を作ってくれました。このときの母の真剣で緊張した面持ちと正確なハサミ裁き(この時だけは、普段用には決して使わない和裁用の大きな裁ちばさみを使うのです)、そして見事に切り出された二人のすばらしい姿かたちを、michikoはいつも感嘆しながら眺めたものでした。
 それから、三人それぞれの七五三、針供養(母の故郷の富山の高岡では十二月八日だったようです)、お正月のおせち、そして歳時記的な行事ではないものの、娘たちの誕生日とクリスマスにも、母のお手製の、ささやかながら手をかけたごちそうが食卓に並びました。とはいえそれはいつも、あくまで家族のなかで祝うもので(ときにはお隣にお裾分けすることもありましたが)、友だちを呼んで一緒に祝うようなことは一度もなかったのです。
三段飾りのお雛さま
  それがどうしてこのとき、「友だちを呼んできていいよ」ということになったのか……多分、雛人形が五人囃子までの三段になって、いかにもお雛さま然とした陣容がようやく整った、これなら他の人にもちゃんと見てもらえるという思いからだったのか、それとも、長女が無事小学校の一年目を終えつつあり、母親として初めて小学生の親となったその満足感・充実感と喜びの気持ちを娘の友だちにまで広く分け与えたくなったのか……
 ともかくmichikoは、いつになく発された母のこの言葉がとても嬉しかったのだと思います。それは雛祭りの当日で、学校に着くとすぐ、そのころ一番仲の良かった女の子にまず声をかけました。それから、時々そのおうちまで遊びに行っていた男の子二人、そして教室でよくおしゃべりする男の子たち、下校時によく途中まで一緒に帰る男の子たちや、冬のマラソン大会のときに四等と六等になった男の子たち(michikoは五等でした)……ともかく、次々と声をかけて、みんなすぐにOKしてくれるものですから、あっと言う間にその数はちょうど十人になっていました。全部同じクラスの子たちでしたが、その当時は一クラス五十人以上は当たり前という時代でした。
小学校のマラソンが行われた多摩川土手
昔もこんな感じでした
 それはmichikoのウチで行われた初めての〇〇会でした。「友だちを呼んできていいよ」と言ったとき、母は何人くらいの友だちを想定しているのか全く触れませんでしたし、michikoのほうも「何人くらい?」と聞くことは思い付きませんでした。ともかく、ふーーーん、友だちを呼んできていいんだ!と、いつもとは違うこの母の申し出にすっかり興奮していたのだと思います。「そんなこと、常識で考えたら分かるでしょ!」というのが母の口癖でしたが、小学一年生にはまだ、その「常識」が身についていなかったということなのかもしれません。数が多いと分け前が減る、という道理にも全く考えが及びませんでした。多すぎると分けることさえ難しくなります……
 母は玄関の前にガヤガヤと集まったわが娘他十名を見るととっさに息をのんで、michikoの腕をぐいとつかんで脇に連れていくと、「多くても八人しか入れないから二人帰ってもらいなさい!」と命じました。確かに、雛段を飾った六畳間のスペースに来客用食卓(大人六人用)を置くと、子供とは言っても、michikoを入れて十一人は無理でした。それにしても……自分から声をかけた友だちに、「申し訳ないけど、場所がないってお母さんが言うから、今日は帰ってくれない? ほんとにごめんね」と頼むのは、とても悲しく心苦しいことでした。このときに感じた大きなストレスも、この雛祭りの思い出が今も鮮やかによみがえる一つの原因なのだと思います。でも、玄関から一番離れたところにいて、こうして断った友だち二人とは、その後も一緒に遊びましたから、彼らのこころの傷にならなかったようなのは幸いでした。
 結局、一人分を予定のすべて半分以下にして、一人一個のはずだったリンゴは切り分けて……まあ、小学一年生ですから、まだそんなにたくさん食べる年齢ではなかったと思いますが……三時のおやつよりはちょっと贅沢という程度のごちそうを雛段の前でみんな一緒に食べました。そして夕方には無事お開き。とはいえ、家族用に取り分けてあったはずのちらし寿司が、このハプニングのおかげでかなり侵食されてしまったことも確かでした。つまり、母の目算は大いに狂い、michikoも「意気揚々」から始まった一日が「意気消沈」に終わるというその落差を大いに味わって、その日の夜は実にやるせない気持ちで布団に入ったことを憶えています。
パンと魚の奇跡の教会(イスラエル)の床モザイク
 こんなとき、イエス・キリストであればすぐに、あの「パンと魚の奇跡」(新約聖書)のごとく、ちらし寿司とお菓子とリンゴをみんなに十分行きわたるように増やすことができたでしょうが……残念ながら、わが母はキリストではもちろんなく、ごくふつーの昔の日本人でした。
 そんなわけで、雛祭り会はこれが最初で最後でした。母はこの一回目ですっかり懲りてしまったのかもしれません。わが娘の常識のなさ、気の利かなさ(「気がきかない」というのがmichikoを叱るときの母の決まり文句で、家庭訪問に訪れた担任の先生にも、そう言って嘆いていたことを憶えています)にあきれ果てたのでしょう。
 それにしても……雛祭りに声をかけた十人のうち女の子はたった一人だけ、あとの九人は全部男の子だったというのは、いったいどういうわけなんでしょうね。これは今にいたっても、michiko自身にとっての大いなる謎です……



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